ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑯物干し泥棒
《 物干し泥棒 》
小学2年の終戦からその後の数年間、日本はなにしろ貧乏になった。戦争で両親が死んじゃった戦争孤児もいっぱいいた。汚れて道端にただ座ってたむろしていた。空襲から阿佐ヶ谷に逃げてきた孤児たち。あの子たちはどうなったんだろうと今でも時々思う。
戦争で焼けて家がない人も多かった。阿佐ヶ谷も線路に近い家はみんな燃やされて、バラックが点々とあるだけだった。多くの人が燃え残った廃材を集め、焼けトタンを屋根にして4本の柱で雨風をしのげるだけのバラックを作って、そこで生活していた。駅周辺は家も塀も燃えちゃって、なんにも遮るものが無くて、駅から杉七まで一直線に歩いて行けそうだった。それくらい何にも無くなった焼け野原にポツンポツンとバラックが建っていた。
親たちも会社が倒産したりして仕事がなかった。男の人が奥さんから、
「あんた、そんなとこにいないで何か仕事探してきなさいよ!」
なんて言われて、みんな仕事を探してた。
でも、ななかなか仕事なんてないから、中には手っ取り早く泥棒をする人も多かった。なにか盗んで質屋やクズ屋に売ってお金にかえていた。
洗濯物もよく盗まれていた。外に洗濯物をほしてると、泥棒はさりげなく入ってきて、パパパっと、素早く洗濯物を取って盗んで行く。当時は服だってまったく足りなかったから質屋に行けば買ってもらえた。洗濯物を盗む泥棒を「物干し泥棒」と言った。戦争でなんにも無くなってたからその頃流行っていた。悪い大人は子供を手なずけて、
「坊や、このお菓子をあげるからあの洗濯物を取ってきておじさんに渡しておくれよ」なんて言って。
「それは泥棒でしょ」って返すと、
「大人には色々とあるんだよ。持ってきてくれればお小遣いあげるよ」
なんてこともよくあった。僕は小学3年生を過ぎていたから、悪いってことがなんとなくわかった。
靴もよく盗まれてた。運動靴、ゴム製の長靴とか何でも。
道路っ端の家では玄関の前が通り道だから、泥棒にみんな持って行かれた。なのでどこの家も靴は家の奥の方にしまっていた。僕の家は玄関が道路の奥にあったから狙われることはなかった。
子供も拾ったものを質屋に持って行った。お金にかえると、そのお金を親にやっていた。親が褒めてくれたり喜んでくれるのが一番嬉しかった。子供でも、悪いと思いながらも盗んでいる子がいた。親も自分の子が悪いことしてるなんて思ってなかった。洗濯物を干してる家も子供だと油断していた。もし見つかっても警察は、
「子供がやっているなら仕方ないよ」
と、相手にしなかった。親が盗んでこいって子も多かった。悪いとわかっていてもどうしようもなかった。
親も強盗したりしていた。「あのおじちゃんは殺し屋だ」って、子供はよくわかっていた。
つづく
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