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大企業サラリーマンと利己的な遺伝子のポートフォリオ戦略について

起業家カッコいい、大企業サラリーマンダサい、という意見を目にするようになった気がする。

だけど、別に起業しなくても、サラリーマンだったとしても、君は君らしくいればよい、ということを利己的な遺伝子のポートフォリオ戦略に絡めて話してみる。


お人好しで、他人のために生きる人が、どうしてこうも世の中にいるんだろう。

結婚もせずに、子供も産まずに、ボランティア活動に明け暮れる人がどうしているんだろう。

小さい子供を救うため、自分の命を顧みずに池に飛び込んで救助をする人がどうしているんだろう。

このような、自分のことよりも他者の利益の為に行動する「利他的な」生き物は、人間だけでなく生物全体で見られます。

そしてこれはダーウィン大先生の「進化論」では説明のつかないテーマでした。
なぜなら、自分のために活動する人に比べて、他者の利益のために行動して自分の身の安全を顧みないような人は、子供を産むタイミングを逃したり、異性に魅力的に見られるような身体的・社会的ステータスを得にくく、子孫を残しにくい。
そのため個体レベルでは、利他的な生物は不利な状況に置かれて淘汰されてしまう。

ではなぜ、未だに利他的な特徴が生き物には残っているのだろうか。

この疑問に答えたのが、1976年にイギリスのリチャード・ドーキンスが記した「The Selfish Gene」(邦題「利己的な遺伝子」)。

この考えでは、個体レベルでは他者のために生きているように見える行動は、遺伝子レベルで見るとその遺伝子を残すための行動、「遺伝子にとって利己的」な行動として考えることができる、という考えである。

自分の周りにいる人は遺伝子レベルで見れば似ていることが多いので、もし誰かが捨て身になってもその周りの似た遺伝子をより多く救うことが出来るのならば、それは一歩引いてみるとMr. 遺伝子自分自身の保身のための行動だという。

僕らの「誰かを思いやる気持ち」は、純粋に他者のためではなく自分に似た遺伝子を少しでも残そうという、個体レベルを超えた遺伝子レベルでの利己的な行動の結果に過ぎないという。


なんだか「誰かを思いやる」純蓮潔白な想いが汚された気がするが、そういうものらしいよ。

僕らの、他人を愛し、命を賭けても救おうとした想いすらも、利己的な遺伝子を残すための行動に過ぎないというのは、ちょっと悲しいな。

だけど一方で、「自分勝手な人」でも「他者のために行動をしている人」でも、どっちにしたって僕らのそれぞれの行動は、遺伝子にとって都合が良くなるように予め決められているということだと思う。

Mr. 遺伝子のポートフォリオ戦略

池でおぼれている人を見た人が全員捨て身で救おうとするとそれはそれで溺死者が増えちゃいそうだし、それでは遺伝子が残らない。
社会の中で、全員が他人想いになる必要はないし、それなりに自分勝手な人も必要で、その割合は長い生物の進化の過程で今の状態が暫定一位なのだ。

それと同じように、全員が起業家になってしまうことは社会として成り立たない。
ある程度安定的に社会を営む人が大多数でなければ社会が回らないし、その中でハイリスクハイリターンなことや変わったことをする人が少数いるからこそ、その社会は構造が変わった時にも対応できるのだ。

これは資金運用のポートフォリオと一緒で、ある程度はローリスクローリターンの金融商品で分散させつつ、3割ほどをハイリスクな新興国の株式などにするような感じで、最適な配分が大切。


であるならば、大企業でサラリーマンしたい人はそれでいいし、起業したい人は起業すればいいし、音楽やりたい人、絵描きになりたい人、親の脛齧ってニートがいい人は、そのまま自分の心の囁きに従って生きた方がいいと思うんだ。

せっかくMr. 遺伝子が人類の安定ポートフォリを組んで運用してるのに、人々がメディアに翻弄されて

「あれ!安定志向型の人が急にリスクテイカーになっちゃった!こんなつもりじゃなかったのに!!!」

みたいになると、それこそ遺伝子のためにならないし、その人たちも本来のポジションではないので苦しい思いをすると思う。

君は君らしく

だから、無理してメディアの騒ぐ事柄や社会の描く「良いと思われること」を追い求めて消耗する必要はないから、君は君らしくいれば良いんじゃないかな。




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