右手の中

iPhoneの機種変や、新しいMacに切り替える時、
決まっては容量をどのくらいにしようか迷う。

結局はいつも、1番低い物か、その次のものを選びがちだ。
もしもっと容量が必要になった時には、外部メモリに取り込めば良いだろうと思うからだ。

一昔前は、SDカードやUSBに保存していたが今ではクラウド上にも保存できより便利になってきた。

この容量は、いわゆる、記憶量を示す。
多ければ多いほど、多くの情報を記憶できる。

記憶は、データで保存できるのだ。
これは、スマートフォンやパソコンに限った事ではないのではないだろう。

知識とは何か?
知識とは、
「ある事柄について知る事、あるいは、その内容」
とある。

この説明は辞書的な意味なのだが、
私はこの「知識」の意味を先ほどまで知らなかった。
このnoteに綴っている文章をiPhoneでタイプしながら検索をかけて先程調べたものだ。
知識についての意味をしらなかったのだが、
伝える場面(あなたが読んでいる時)では、私は「知識」について知っていることになるのではないか。

知識とは何か?
記憶とは何か?
学習とは何か?
教育とは何か?

何でもかんでも「覚えなくてはならない」「試験は暗記」の風潮は未だにあるように思えてならない。
当たり前かもしれないが、学校の試験ではカンニングはタブーだし、試験中の検索ももちろん許されない。

何を測っている?
覚えているものだけを使う場面は一体どこにある?
重要なのは、
課題を発見し、
解決するために、
何をどのように調べればいいのか、
そして調べたのもをどのように伝えるのか、
あるいは使うのか。
使う場合は、どのように使うのか。

養うべき本質は、知識の記憶・暗記ではなく、
課題発見力、検索力、表現力ではないのか?
そこに、記憶量をはかる必要はあるのか?
記憶は結果として、残ったもの程度でいいのではないか。

昔は、すぐに検索するのは難しかっただろう。
分厚い辞書を持ち歩くことも、世界中に繋がるネットワークもなかったのだから。

今は違う。
それらは全て、右手の中にあるのだ。

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