数学講師/バリスタ兼ロースター/webデザイン など好きな事を仕事にしています。 数学、哲学、心理学を中心に、授業で話している余談をまとめています。

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最近の記事

顔を上げる

面倒くさい。 様々な場面でこの言葉が頭を過ぎる。 なにをするにも、動き出すまでに時間がかかり、先延ばしにしてしまうし、 しなくていい理由をあれこれと考え出す。 勉強だってそうだ。 高校時代に家で勉強したことが、どれだけあっただろうか。 そもそも、カバンから勉強道具を取り出す あの、「はじめるまでの時間」が億劫だ。 家ではできないものだと、自分を信じていなかった為に、休みの学校や大学図書館にはよく通ったものだ。 面倒くさい。 何か飲み物でも飲もうとした時に、椅子から立ち上

    • 魚と葦

      先人の言葉が残っている今を生きれている事に、非常に有難いと思える。 老子の教えは、学校教育の漢文の授業でも扱うほど。しかし、その大切さに気づいたのはここ数年前のことだ。 「授人以魚 不如授人以漁」 「人に授けるに魚を以てするは、人に授けるに漁を以てするに如かず」と読む。 「人に魚を授けることは、漁の仕方を教えるに及ばない」 という意味だ。 数学教育において、私はこの言葉についてよく考えさせられる。 いや、数学教育だけでなく教育全般にいえるだろう。 数学を公式暗記とし

      • "You  can  take  a  horse  to  the  water,  but  you  can’t  make  him  drink." この言葉をご存知だろうか? イギリスのことわざのようで、 「馬を水辺に連れて行くことはできても、 水を飲ませることはできない。」 という訳だ。 私ができることと、相手ができることには境界がある。 「人を変えたい」 相手を変える事は、非常に難しい。 相手の考えを変えなければならない。 私は仕事柄、数学を教えている。

        • good enough

          今幸せだろうか、生活に満足しているだろうか。 幸せについて、ソクラテスはこんなことを言っている。 “The secret of happiness, you see, is not found in seeking more,  But in developing the capacity to enjoy less.” いいかい? 幸せの秘訣はさらに多くを求めるのではなく、より少なきを楽しめる能力を磨くことにあるのだよ。 足るを知る。 幸せは、誰かが決めるものではないが

          革命

          私の人生に大きな変化を与えたきっかけは、いつ・どんな時であっただろう。 人は、幼年期に言葉を習得し、コミュニケーションが取れるようになる。 これは、大きなきっかけになりそうだが、 如何せん、昔のことすぎてその記憶を私は持っていない。 ぱっと思いついたことで言えば、大学3年時の教職講座で教育心理学を学んだときだ。 ここで、初めて心理学を学んだ。 本当は高校時代に、現代社会の授業で少しは学んでいたのだが、頭の片隅にもなかった。 心理学の面白さを学び、それらの本も読み漁った。

          右手の中

          iPhoneの機種変や、新しいMacに切り替える時、 決まっては容量をどのくらいにしようか迷う。 結局はいつも、1番低い物か、その次のものを選びがちだ。 もしもっと容量が必要になった時には、外部メモリに取り込めば良いだろうと思うからだ。 一昔前は、SDカードやUSBに保存していたが今ではクラウド上にも保存できより便利になってきた。 この容量は、いわゆる、記憶量を示す。 多ければ多いほど、多くの情報を記憶できる。 記憶は、データで保存できるのだ。 これは、スマートフォン

          右手の中

          だから憐れむ

          以前は、様々な場面でイライラしたり、 動揺したりと嫌な気持ちになることが多々あった。 歩きタバコをしている人を見たり、 電車でのマナーの悪い態度を取ると人を見たり、 仕事での接客で、あしらわれた態度や上からの言葉を受けたり。 生活をしていれば、このような事は日常茶飯事である。 その度に、感情が揺れ動かされストレスが溜まる。 今後会うこともないだろう、見ず知らずの人の行動によってストレスを受けていたのだ。 しかし、今はそうでもない。 そんな時は、「憐れむ」ことをする様にし

          だから憐れむ

          消えた休日

          「そういえば、"ひ"さんは休みの日はあったりするの?」※"ひ"とは私の事だ いろんな仕事をしている関係上、それを知っている方からはこんな質問を受ける。 休みの日、いわゆる、休日は私には存在していない。 そもそも休日とはなんなのだろうか? 辞書的な意味では、 "業務、授業などを休む日" としてるものがあった。 近頃の働き方として、副業を始める人は増加傾向にあるだろう。 私自身も、その一人に該当する。 複数の仕事は、他の仕事が休日あるいは、勤務後に行うためやはり、休日は

          消えた休日

          蝿(2,4)

          人に正確な情報を伝える。 言葉を使い、自分の考えを人間は伝えることができる。 もちろん、表情やジェスチャー等、言葉を用いずとも多少の想いは伝えられそうだ。 しかし、言語使用と比較すれば、それは月とスッポンだ。比べるまでもない。 「天井にハエがとまっている」 この言葉から、ハエは天井にいる事はわかるのだが、その詳細な位置は伝わるだろうか? 位置を正確に伝えるためには、どのように伝えたら良いだろうか? ・寝そべっている私の真上 ・電球のとなり 状況は様々だろうが、このようにも

          蝿(2,4)

          単位元の向こう側

          0から1を生み出すのは難しい、というのはよく言われる話だ。 ビジネス界隈では、1を10にする なども耳にする。 基本的な演算には、加法と乗法があり、ここでの「0と1」は本質的に異なる。 それは、基準の違いだ。 いわゆる、単位元と呼ばれている。 ざっくり説明すると、 単位元とは、その演算で"値を変えないもの"で、 加法における単位元は、"0" 乗法における単位元は、"1"である。 例えば、 2+0=2であるから、足し算では"0"を足しても値を変えない。 2×1=2であるから

          単位元の向こう側

          苦い

          フッサールは、客観を失くした。 そこにあるりんごは、「赤い」だろうか? いわゆる、客観的に見ればそれは「赤い」。 この客観的とは、どの立場からの視点なのだろう。 例えば、あなたが犬だとしたらそれは「赤」くは見えないだろう。 犬は検知できる色は2つであって、りんごは我々の思う「赤」には映っていないらしい。 これは少し極端な例である。 しかし、意識的・無意識的にしろ、「客観」は人それぞれが決めていて、人それぞれが決めている以上「主観」ではないだろうか。 フッサールは、 人間が

          自分とはなんだろうか? 自分は自分だろうと思うかもしれないが、 "他人から見た自分"と、"自分が思っている自分"は違うだろう。 言葉として"自分"がたくさん出てくるので、 "自分が思っている自分"を"私"と表現しておこう。 私の中の自分は、経験だったり所属や族柄で表すこともできるだろうがあくまで情報に過ぎない。 他人から見た自分は、その他人は経験などしておらず、共に過ごした外からみた自分であり、情報に過ぎない。 自分とは、情報なのだろう。 ここでは、虚偽や真実は問わない

          基準

          ある本でこんな話があった。 ------------- 私はこの3つの言葉を決して口にしない ・時間がない ・お金がない ・疲れた ------------ これらは、あくまで主観であり明確な基準がなく本人に委ねられる。 所持金は0円なら、お金がないと言えるだろうがそんなことはないし、 過ぎ去った事以外は、時間は存在している 疲労指数なるものがあって、その数値が基準値を超えて疲労と認定されるのであれば疲れているのだろうがそんなこともないだろう。 これらは、言い訳の際や合理

          ヴィトゲンシュタインの「論考」

          「今日の朝は目玉焼きを食べたんだよね」 目玉焼きを食べたということは、一方で ゆで卵やスクランブルエッグ、オムレツなど卵料理に着目するとそれらを食べていないということも読み取れる。 "でないもの"に着目する発想は意外に使う場面も多い。 例えば、 残り物を数えて、売れた数を知る 欠席者を数えて、出席人数を知る など、集合論で言うところの補集合の考えがこれに当たるだろう。 何か「してる時」に、「してないこと」は何か を考える。 そうすることで、今している価値を問うことができるだ

          ヴィトゲンシュタインの「論考」