"力強さ"を問い直そう …と思わないか?
こちらはMIMIGURI AdvetCalendar2022のDay2記事です
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アドベントカレンダー経由で初めて知る人も多いかもなので、簡単に自己紹介をさせてください!
株式会社MIMIGURIで、デザインの考え方をベースにした、コンサルティングやファシリテーション、あるいはそれらの研究に取り組んでいます。(貼った記事がもうコロナ前とかのだ…)
『リサーチ・ドリブン・イノベーション』という書籍を、代表の安斎と共著で執筆しています。
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はじめに
「もっと一体感を持った力強い組織にしたいんだよねぇ」
「事業の力強さが感じられないんだよなぁ」
「私たちの地域からは、力強さが失われてしまっている気がする」
普段クライアントさんから、頻出する言葉の1つが"力強さ"です。当然、"力強い"事業や組織、あるいは地域が実現できるに越したことはありません。
しかしながら、その"力強さ”とは、一体どんなイメージを皆さんは抱いているでしょうか?
この記事では、VUCAのような、変化が激しく複雑な時代の中で、どのような"力強さ"が求められるのかについて紹介していきます。
結論から言えば、カッチカチやぞ〜!的なものではないと考えており、より柔軟性を持った"力強さ"が大事になるのではないかと考えています。
サムネイル画像のような"力強さ"ではなく、なぜ柔軟性を持ったしなやかな"力強さ"が大切になるのか。そのためには何を意識すべきなのか。
今はまだ探究の途上ではありますが、少し皆さんに開くことで、考えを深める機会にしたいと考え、記事を書いてみました!
時間がない人向けの「3分」で読める? まとめ
価値観の多様化の背後に潜む「最適化の罠」
価値観が多様化する一方、社会の複雑化も進んでいる。この状況に私たちはまだうまく適応できておらず、さまざまな問題も起きてきている。
その問題の1つに、トライブ化(部族化)の中で生まれる「最適化の罠」があると考えている。
それぞれ価値観の似通った人たちが集いコミュニティを形成し、小さな部族が沢山生まれたような状況が生じている。
しかし、価値観やこだわりがより強化され、葛藤することなく、居心地が最適化された集団になりすぎると、近しい考えの人とだけコミュニケーションを取るようになり、トライブ間には分断が広がっていってしまうという問題が起きてしまう。
また価値観の固定化によって、ある種の囚われがコミュニティに生じていき、社会環境が大きく変化した時に、自分達に最適化された状況から抜け出せず、その変化に適応できなくなってしまうことも起きる。
こうした現象は、今日の事業や組織、あるいは地域コミュニティにおいても、考慮すべき観点であると考えており、「最適化の罠」と名づけた。
最適化と距離を置く「東川町」のあり方
最適化の罠に陥らずに、良いバランスを保っていると考えられる事例として、北海道の東川町が挙げられる。
北海道の住み心地の良い自治体ランキング2022でも1位になった東川町だが、急激に発展するということはなく、少しずつ新しい風が吹き込んでいるような、じわじわと成長を続けている自治体でもある。
注目が集まると、どうしてもそこに大きな商業施設を立てようと言ったような、経済発展的にありがちな開発が進んでしまいがちだが、そこにブレーキをかけているのが、農地の存在だと地元の方は言う。農地転用は簡単ではなく、それによって適度に開発のバランスが保たれているのではないか?
東川町に暮らす、農業や養鶏、林業を営むある方は、東川町への移住を決めた際に重視したこととして、モノカルチャー、つまり産業の大部分が1つの業態で占められている訳ではなく、多様な産業が広がる町の柔軟性があったことが大きかったと言う。1つの産業だけでは、変化にも弱く、またそこで利用される資源の枯渇にも繋がりかねない。
東川町には非常に多様な人々が集まっている。普通はどうしても1つの強固なコンセプトからなる、一致団結した姿を目指してしまいがちだが、東川町は、互いがつかず離れずの人々の距離感を保っているように感じられた。
こうした、農地という物理的な開発に対する制約、多様な産業からなる町の構造、人々のつかず離れずの距離感、と言った「適度なまばらさ」、最適化と距離を置き、良いバランスの発展に寄与しているのではないだろうか?
大切なのは、柔軟性のある"力強さ"
最適化の罠に陥らず、より良い関係を構築していくためには、余白や、柔軟性、距離感が大切になるように思える。
一致団結して、固く結びついた状況は、確かに"力強い"ものの、どこかに綻びが生じると、脆く崩れやすくもある。
変化を前提にすべき時代においては、ゆるっとたゆんだ紐で繋がっているような関係性の方が、柔軟性が発揮でき、結果的にしなやかな"力強さ"が生まれていく要因になるのではないだろうか?
これは筋肉や身体の話にもつながる。重量感があり、硬く締まった筋肉は、確かに"力強さ"の象徴だが、一方で可動域は狭くなり、怪我もしやすくなってしまう。球技のような、状況変化が伴うようなスポーツにおいて、筋肉を付けすぎることは、かえってパフォーマンスを低下させかねない。
むしろ大事なのは、鞭のようなしなやかな"力強さ"にある。イチロー選手の力感のないフォームや、40歳を過ぎても衰えを見せない姿は、目指す”力強さ"の姿に思える。
イチロー選手が取り入れていた初動負荷理論では、緩むという動きから始まり、筋肉に徐々に伸びる形でストレッチがかかった上で、縮んでいくというプロセスにポイントがある。適度に緩んだ状態があるからこそ、あるいは、緩むことを活用することで、生み出せる力があると言ってもよいだろう。
"力強さ”というとどうしても、ムキムキマッチョのイメージを抱いてしまいがちだが、柔軟性がなければ、本当の意味での”力強さ"を体現することはできないだろう。
人の認識や関係性に、柔軟性をもたらすストレッチを
身体と同様に、人間の認識や、人と人との関係性にも、同様なことが言えるのではないだろうか?
心理的安全性というキーワードは社会に広く普及したが、そのベースには、心理的柔軟性という概念がある。
人々の認識のあり方、価値観、あるいは関係性にこそ、柔軟性がなければ、本当の意味で多様性を生かし、"力強い"事業や組織、あるいは地域のあり方を実現することはできないだろう。
大切なのは、スキルや知識で身を固めようとすることではなく、柔軟性を高めるために、「ストレッチ」の仕方を学習することではないか?
固定観点を外すための「方法」は数多く語られているが、本質的に大事なのは、柔軟性を兼ね備えるための「ストレッチ体操」あるいは「認知の初動負荷トレーニング」ともいうべきものだろう。
創造性に関する一端の実践者/研究者として、こうした観点についても探究を深めていきたいと考えている。
価値観の多様化の背後に潜む「最適化の罠」
トライブ化(部族化)する社会
VUCAという言葉はもう聞き飽きたと思いますが、価値観が多様化すればするほど、社会が複雑化していくという実感は、多くの人が感じているのではないでしょうか?
もちろん多様な価値観が許容されるようになったことはとても素晴らしいことであり、救われた感覚を抱いている人もいるでしょう。
しかしながら、対立がなくなった訳ではなく、以前よりも状況は混迷を極めているようにも思えます。私たちは、まだこの状況にどのように向き合うべきか、学び始めたばかりとも捉えられますし、今までになかったような状況も日々生まれています。
その1つが、トライブ化と呼ばれる状況です。トライブ(Tribe)とは部族のことで、その名の通り同質性を持った集団の集まりを表現しています。多様な価値観が許容されたことで、それぞれ価値観の似通った人たちが集いコミュニティを形成し、小さな部族が沢山生まれたような状況が生まれている訳です。
こうしたトライブ化を前提とした、トライブマーケティングという切り口も生まれており、どのようにそれぞれのトライブが好むような商品やサービス、情報を届けるかという観点に注目が集まっています。
「最適化」によって生まれる弊害
トライブごとに適した状況が生まれること自体は、受益者からすれば良いことのように思えます。しかしながら、あまりにも最適化しすぎると、そうとも言えなくなってくる側面があります。
提供される情報やトライブの中での情報交換の過程の中で、価値観やこだわりがより強化され、葛藤することなく、居心地が最適化された集団になりすぎると、当然その中ではコミュニケーションの濃度は上がっていったとしても、別のトライブとの情報ギャップは広がり、そこに対立も生まれていきます。トライブ間にどんどん分断が広がっていくという問題が生じるのです。
また価値観の近しい人たちだけで違いを受容し合いすぎると、こうあるべきという価値観の固定化を促進することになり、ある種の囚われがコミュニティに広がっていきます。
すると、何かの拍子で社会環境が大きく変化した時に、最適化された状況から抜け出せず、自分達の考えとは違う考えを否定することばかりしかしなくなってしまい、その変化に適応できなくなってしまう恐れも強まるのです。
このような社会問題のような構造は、そう簡単に変えることはできるものでもなく、少し距離のある話題のように感じるかもしれません。しかしながらこうした現象は、今日の事業や組織、あるいは地域コミュニティにおいても、考慮すべき観点になりうると考えています。私はこれを最近「最適化の罠」と呼んでいます。
最適化と距離を置く「東川町」のあり方
注目を集める「東川町」
この観点に至ったきっかけとなったのが、弊社メンバーの遠又も居住している「東川町」に赴いたことです。
北海道の住み心地の良い自治体ランキング2022では1位になり、隈研吾さんが取り組みを広げるなど、クリエイティブ界隈でも注目を集めている東川町。
しかしながら急激に発展するということはなく、少しずつ新しい風が吹き込んでいるような、じわじわと成長を続けている自治体でもあります。
こうした東川町のあり方に、実は最適化の罠に陥らないためのヒントがあるのでは?と考え、3つの観点から考察してみました。
①「農地」が生み出す適度な開発
1つ目に着目するのは「農地」についてです。
町づくりが難しいのは、計画だけで全てをコントロールできない部分があることです。地主さんが土地を売って、そこにどこにでもあるような商業施設が立ってしまえば、確かに人は集まりますが、渋滞も増えこれでよかったんだっけ?という結果になりがち。しかしながら、経済発展を最優先とする人々の動きを止めることは簡単ではありません。
おそらく東川町に対しても、そうした目論見は向いているでしょう。そこにブレーキをかけているのが、農地の存在であるという話が、遠又さんと東川町の居酒屋で飲んでいた時に、隣のカウンターのお客さんから聞こえてきたのです。これがこのnoteの着想に至った最初のきっかけでした。
農地というのは、与える影響の大きさから、かなり守られており、農地をそれ以外の用途で用いるためには、都道府県知事や指定市町村の首長の許可が必要となります。
東川町は総面積のうち、林野面積が約70%を占めており、残りの30%の半分を耕地面積(全体の15%)が占めている。人が普段生活するエリアの半分を畑が占めている訳で、これが急激な発展や大規模な開発の制約として機能しいるのではないかと考えられるのです。
開発したい人たちからしてみれば、保守的すぎて害悪な制度だ、と思う人もいるのかもしれないが、これによって適度に開発のバランスが保たれているのではないかとも考えることができるでしょう。
モノカルチャーでは生み出せない柔軟性
2つ目も農業に関連する言葉ではありますが、モノカルチャーではない自治体であるという観点です。
東川町で、とある農業や養鶏、林業を営む方に取材させていただいたのですが、東川町への移住を決めた際に重視したこととして、モノカルチャーな自治体ではなかったことをあげられていました。
モノカルチャーとは、農業の一形態で、単一品種の作物を栽培することを意味しています。単一の作物だけを育てると、その土地から吸い取られる栄養に偏りが生じてしまったり、何か病気が流行れば、一気に全滅してしまいかねない恐れがあります。
モノカルチャーな自治体とは、産業の大部分が1つの業態で占められている訳ではなく、多様な産業の広がりによって町が成りなっているということになります。つまり、町のリソースを枯渇させずに上手に生かすことができ、また何か災害が起きた時でも柔軟に対応できる町、という訳です。これが決め手になったとのことでした。
先ほど生活エリアの半分が耕作地であるという話をしましたが、そこに多様な産業が集っているというのはとても面白い状況です。
実際に家具はとても有名ですし、写真の町としてブランディングがされてきた場所でもあり、さらには、町立の日本語学校を設立し、400名強もの外国の方が日本語を勉強されているそうです。(全体の人口8000人なのに!)
行ってみると本当に様々な人がいるなぁというのが肌感覚でわかります。
つかず離れずの距離感
このように多様な人々が集う、というのは様々な自治体も憧れるところではないでしょうか?ではなぜ、東川町はこれが実現できたのでしょうか?
旭川空港が近いという立地的な側面があることは否めないでしょう。様々な業種が存在するためには、当然様々なロジスティックスが必要に成ります。しかしながら、これだけで成り立つのであれば、他にもうまくいく自治体は数多くあるでしょう。
実際行ってみて、そこに暮らす人々の「つかず離れずの絶妙な距離感」に、ポイントがあるのではないかと感じました。
町おこしというと、普通はどうしても1つの強固なコンセプトからなる、一致団結した町を目指そうとしてしまいがちです。
しかしながら、現在移住者が人口の半分を占める東川町では、一体となってやるよね??というような、ある種強制力の感じられるような縛りのある空気感はさほど感じられませんでした。
移住者が多いからなのか、その空気感があったから移住者が増えたのかというのは難しいところですが、互いが心地よいと思える距離感を保てているのは間違いないでしょう。こうした「つかず離れず」という、町おこしという言葉とは少し距離のある言葉に、人々が集う要因があると考えました。
「適度なまばらさ」が、豊かな町を形成する
こうした、農地という物理的な開発に対する制約、多様な産業からなる町の構造、人々のつかず離れずの距離感、と言った3つの観点によって、東川町のなんとも言えない心地よさが実現しているように感じました。
もちろん、それだけではないですが疎という言葉に「まばら」という意味があるように、「適度なまばらさ」が、最適化しすぎない、町の良いバランスを保った発展に寄与しているのではないかと、視察を通して感じました。
大切なのは、柔軟性のある"力強さ"
柔軟性のあるしなやかな"力強さ"
さて、だいぶ話が東川町に引っ張られましたが、"力強さ"というキーワードに話を戻していきましょう。
ここまで見てきたように、最適化の罠に陥らず、より良い関係を構築していくためには、余白や、柔軟性、距離感、あるいは適度なまばらさが大事なように思えます。
一致団結して、固く結びついた状況は、確かに"力強い"パワーを持っています。しかしながら、どこかに綻びが生じると、脆く崩れやすい存在でもあります。変化の激しい時代。いつどこで小さな綻びが生じてもおかしくありません。
私は、今回の東川での体験から、変化を前提にすべき時代においては、ゆるっとたゆんだ紐で繋がっているような関係性の方が、柔軟性が発揮でき、結果的にしなやかな"力強さ"が生まれていくのではないだろうか?と考えました。
これは筋肉や身体の話にもつながります。(やっとサムネイルの話に)
重量感があり、硬く締まった筋肉は、確かに"力強さ"の象徴ではありますが、一方で可動域は狭くなり、怪我もしやすくなってしまいます。
まして球技のような、状況変化が伴うようなスポーツにおいては、筋肉を付けすぎることは、かえってパフォーマンスを低下させかねません。
むしろ大事なのは、鞭のようなしなやかな"力強さ"にある、というのは多くの人が理解してもらえることでしょう。
イチロー選手の力感のないフォームや、40歳を過ぎても衰えを見せない姿は、目指す”力強さ"の姿のようにも思えます。
(ちなみに筆者はオリックス時代からのイチローファンです)
アスリートが注目する、初動負荷トレーニング
イチロー選手が取り入れていた考え方に、初動負荷理論というものがあるのはご存知でしょうか?おそらく陸上をやられていた方などはご存知の方も多いのではないかと思います。
初動負荷理論とは、鳥取にあるワールドウィングエンタープライズの代表の小山裕史氏が、1994年に提唱した理論で、今日では数多くのアスリートが取り入れている、トレーニングに関する基礎理論です。
専門家ではないので、細かな言及は避けますが、初動負荷トレーニングは、緩むという動きから始まり、筋肉に徐々に伸びる形でストレッチがかかった上で、縮んでいくというプロセスにポイントがあるとされています。
適度に緩んだ状態があるからこそ、あるいは、緩むことを活用することで、生み出せる力があると言ってもよいのではないかと自分なりには解釈できました。
"力強さ”というと、どうしてもサムネイルのような、ムキムキマッチョのイメージを抱いてしまいがちですが、柔軟性がなければ、本当の意味での”力強さ"を体現することはできないのではないかと考えさせられます。
人の認識や関係性に、柔軟性をもたらすストレッチを
認識も、関係性もしなやかに
身体と同様に、人間の認識や、人と人との関係性にも、同様なことが言えるのではないでしょうか?
心理的安全性というキーワードは、社会に広く普及したのではないかなと感じられますが、そのベースには、心理的柔軟性という概念があります。
心理的柔軟性については、是非石井先生の書籍などもご覧いただければと思いますが、柔軟に対応できる心のしなやかさのことです。
どうしてもわかりやすい方、自分の価値観に近い方、葛藤から逃れる方へと私たちは流されてしまいがちですが、そこの行き着く先には、最適化の罠が待ち受けています。
人々の認識のあり方、価値観、あるいは関係性にこそ、様々な変化や価値観の違いに対峙する柔軟性がなければ、本当の意味で多様性を生かし、"力強い"事業や組織、あるいは地域のあり方を実現することはできないのではないでしょうか?
大切なのは「ストレッチ」の営み
昨今「リスキリング」という言葉が広がり、盛んにスキルや知識の習得の必要性が謳われています。学習という観点でこの動きは決して否定するものではないとは思います。
しかしながら、その前提には、獲得したスキルや知識でガチガチに身を固めた、ムキムキマッチョな"力強い”人材像があるように思えてなりません。
今こうした時代だからこそ、大切になるのは、柔軟性を高めるための「ストレッチ」ではないかと私は考えています。居心地の良さに甘んじて、ストレッチをしなければ人間の体はどんどん固くなっていきますし、思考も同じように固くなって知ってしまうはずです。
だからこそ、最適化の罠に陥らないように、ストレッチの仕方を学習していく必要があると考えています。
固定観点を外すための「方法」は数多く語られていますが、本質的に大事なのは、単なる手続的な方法論ではなく、自身の柔軟性を兼ね備えるための「ストレッチ体操」あるいは「認知の初動負荷トレーニング」ともいうべきものではないでしょうか?
柔軟性というと、弊社には、レジリエンスの研究をしている、池田めぐみさんという研究パートナーもいます。この記事のきっかけにも、彼女の研究もありました。
僕も、MIMIGURIに籍を置く、創造性に関する一端の実践者/研究者として、より社会の柔軟性を高められるように探究を深めていきたいと考えています。
終わりに
いかがでしたでしょうか?
皆さんのイメージする"力強さ”に、何かしらの変化はありましたでしょうか?
是非とも感想コメントなども交えて、皆さんが陥っている固くなってしまった状況や、皆さんの考える「ストレッチ体操」を教えていただけたら嬉しいなと考えています。
明日以降もどんどんと、noteが更新されていきます!(みんな死にそうになっています笑 僕もギリギリになって死にそうです笑)
様々な切り口から、キーワードに対する、それぞれの景色が共有されると思います。
明日はMIMIGURIのトップコンサルタント兼事業長の濱脇さんのエントリーです!是非お楽しみに!
余談
こんなこと書くとムキムキマッチョ(筋肉)否定派のように思われますが、結構筋トレYoutuber見てます笑 中でも山澤さんは、ものすごく体も柔らかいし、丁寧だし、ものすごくいい人なんだろうな感がすごいのでおすすめです!
サッカー勝っちゃいましたね!!!!システムのしなやかさとかは、サッカーにおいてもものすごく重要かも
この記事が参加している募集
みなさんからいただいた支援は、本の購入や思考のための場の形成(コーヒー)の用意に生かさせていただき、新しいアウトプットに繋げさせていただきます!