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夏目漱石「行人」より/一郎の実証主義

〔夏目漱石「行人こうじん」『夏目漱石全集7』所収(ちくま文庫,1988)に対し、一郎の実証主義という視点から光をあててみます〕


夏目漱石『夏目漱石全集7』(ちくま文庫,1988)
*作品紹介では「近代知識人の孤独と苦悩を描く」とされています。


1 長野一郎が抱く疑惑と彼の実証主義

(1)疑惑

一郎は悩んでいる。疑っているからだ。彼の妻 なおは弟の二郎に惚れているのではないか、というのです。しかし一郎は証拠はないと二郎に言う。恋文が出てきたとか接吻の現場を見たとかではない。「…実証から来た話ではない…」(同書134頁)。

つまり、《直は二郎に惚れている》ということを推認させるような証拠はありません。一郎がいだく疑惑が事実であることを積極的に立証する証拠は何もあがっていないのです。他方で《直は二郎に惚れていない》ということを推認させるような証拠がないことも事実です。一郎はこの消極的に立証する局面の証拠が欲しいというわけです。ということは一郎は、《直は二郎に惚れているとは言えない》という不明瞭な状況では満足できないということになります。

こうした一郎の白か黒かはっきりさせないとすまない性格、というより論理的頭脳の傾向性は、物語のいたるところで指摘されています。たとえば、一郎の友人Hが一郎について「兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生まれてきたような結果におちいっています。兄さんには甲でも乙でも構わないというどんなところがありません。必ず甲が乙かのどちらかでなくては承知できないのです。しかもその甲なら甲の形なり程度なり色合いろあいなりが、ぴたりと兄さんの思う坪にはまらなければうけがわないのです。…」(同書395頁)と評しているのが最も端的なところです。

一郎が二郎に対し、直は二郎に惚れているのではないか、二郎が腹の奥底で感じ取っているところを教えてくれと問うた際、二郎は腹の奥底にある感じなど僕にはないと言って一郎の疑念を否定します。すると一郎は「だって御前の顔は赤いじゃないか」(同書136頁)と言って、二郎の主張の価値を減殺する証拠をつかんだようなことを言います。しかし、さすがにこれは証拠力のほとんどない、何とでも評価できる間接証拠に過ぎず、頭脳の優れた一郎はすぐにその軽薄な論理構造を自覚し、二郎に謝ります(謝るときにすら一郎は「おれは御前の兄だったね」(同書136頁)と、血縁を前置きにしてからする。一郎が儒教的位階秩序を強調して二郎にものを言う場面が何度もあります。私はこうした箇所に来るたび「儒教アラート」が鳴る気がします。一郎の実証主義的態度には奇妙な混ざりものがあるようです)。立場の上の兄が、自身の主張の論理的基盤が弱い場合にはすぐに謝ることができるくらい、一郎の論理的思考の働きは強固です。


(2)一郎の実証主義

さて、こうした甲であるか乙であるのか断定しないことには満足できない一郎の論理的頭脳は、《直は二郎に惚れていない》という証拠を得るため、二郎におかしな依頼をすることになります。それが「…実はなお節操せっそうを御前にためしてもらいたいのだ」(同書148頁)、「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊まってくれれば好いんだ」(同書149頁)というものです。

証拠が欲しい、であるから惚れられているかもしれない相手に、本当に惚れているのか試すようおとり捜査を依頼する。論理的でありながら、なかなかおかしな発想です。そこに一郎の論理的頭脳の偏狭さを垣間見ることができます。

なぜおかしな発想であり、偏狭な論理的思考であるといえるか。それは、一郎が直の心を固定したものと捉えているからです。自分の心と同様に人の心ほどその真相をつかみ難いものはなく、環境や他者からの働きかけ、刺激などの外的な要因に触れてすぐに変化していくのが人間の心理というものであり、千変万化してやまない無限に流動的で不可思議なものこそ心です。それを試そうというわけです(どこかヒュブリスな態度です)。一郎が発案したこの実験を行うことで、二郎から試された直の心理が変化し、《二郎に惚れていない直》が《二郎に惚れている直》に変化するという可能性に一郎は気づいていない。惚れていないなら直は二郎の働きかけに応じない、と固定的に捉えており、それは直の心情をあたかも固化した物的なものであると想定しているところに起因する思考であるといえましょう。

しかし、ヒュームは人間科学には自然科学とは異なり、実験的方法の適用に特殊な困難が伏在していることを自覚していた。それは「実験を収集するに際して、意図的に、前もって計画し、起こりうるあらゆる特殊な困難について納得できるような仕方で、実験を行うことはできない」(Hume [1888] 1968, p. xxiii) ということである。このことは、人間科学においてはニュートンが行ったような仮説演繹法に基づく「構成的実験」が不可能であることを意味する。人間科学においては、条件を単純化して人為的にコントロールすることができず、あらかじめ意図的に実験を構成することそれ自体が、人間の精神に何らかの影響を及ぼさざるをえないからである。これは現代の社会科学においても当てはまる困難であろう。それゆえヒュームは「このような科学においては、われわれは実験を人間生活に関する注意深い観察から拾い集めねばならない」(Hume [1888] 1968, p. xxiii) と結論する。

野家啓一「「実証主義」の興亡―科学哲学の視点から」理論と方法 16 (1), 3-17[8]頁, 2001



2 一郎的実証主義の根、養分、土壌

(1)その奥の構造

一郎の偏狭な論理的頭脳は、上記実証主義的態度となって現れ、その限られた論理的思考の中では正当な実験手法を思いつき、これを儒教的位階秩序をゆるやかに利用して弟に実行するよう迫る、こうした行動原理の根っこには何があるのでしょうか。その養分はどこからきて、そもそもこれをはぐくんだのはいかなる性質の土壌なのでしょうか。


(2)根っこ

一郎は直の心の真相をつかもうとします。その心の領分の全部をくまなく知りたいという欲望に駆られています。他者の心の隅から隅までつかまなければ満足できない、それは論理的にはつかめるはずであるし、つかめなければこちらの心の平穏が乱される。一郎は言います。「噫々ああああ女も気狂きちがいにして見なくっちゃ、本体はとうてい解らないのかな」(同書119頁)、「…自分はどうあっても女のれいというかたましいというか、いわゆるスピリットをつかまなければ満足ができない。…」(同書140頁)。

この「他者の心を全部つかむ、つかめるはずである」という基本思想に、一郎的実証主義の根があると思われます。


(3)養分

では、かかる根はどこから養分を得ているのでしょうか。先に少し触れましたが、やはり偏狭な論理的思考です。

大学で講義をし広い教養的知識と生物学や遺伝の学識を有する一郎は、近代的知識人です。近代合理主義的思考様式に訓練された、論理的思考展開を誇る人物といえます。しかしながらその思考や知識が、どことなく視野の限られたいかにも狭小な感じを発散しています。

二郎は見破っており、「…学問をして、高尚になり、かつ迂闊うかつになり過ぎた兄」(同書254頁)、「兄は理に明らかなようでいて、またその理にころりとげられる癖があった」(同書256頁)。論理的に投げられるというのは、奥行きのない柔軟性の欠いた思考様式であるために固化しており、そのために押しどころを相手に見破られてしまえば重心移動により体勢を立て直すことができずに簡単に倒れてしまう、巨大に見えて実は不安定な物体のようなものだということです。

固化した見えやすい物的存在に親しみ、他方で流動的で見定め難い多様な側面を有するものを忌避する心理が一郎にはあります。後者は一郎の狭い論理的頭脳で切り結ぶには手に余る対象だからです。一郎はどんどんと発展する科学が恐ろしく、不安に駆られています(同書380頁)。自分が知らないものが次々に現れて、知らない場所に連れて行かれるという不安です。一郎は静かな海は良いが、水よりも山を愛す(直と二郎の和歌山宿泊の背景が、暴風雨と海嘯つなみの気配に縁どられていたことと響き合う)。「近頃の兄さんは何でも動かないものが懐かしいのだそうです」とHが報告しています(同書382頁)。未知のものが自身を締め付けるように取り巻いて不安を駆り立て、そうであるから物的に動かないものを愛好するも、それゆえになおさら事象をしっかりと把握し感じ取ることができない、という一郎の苦悩円環があります。

こうした偏狭な論理的思考が、前述の根っこに養分を営々と提供してその根元を厚くしていることは見やすいところです。

*もう一つの養分供給源に、前述した儒教的位階秩序とも無縁ではない血筋・血縁の論理と、自然的・遺伝的論理の葛藤があるようですが、ひとまず省略します。


(4)土壌

上記養分を吸って厚く根を茂らせていく土壌たる一郎の精神的基盤は、なかなかに多層的であり単純ではありません。

一つには精神の真っすぐな、事象の実相を掴もうとするまことある姿勢が確かにあります。これは二郎もHも認めているところです(意地汚く他者を傷つけてやろうというような心理はなく、それゆえこの物語は苦悩する一郎への同情を禁じ得ないものとなっています)。

Hが「どこの馬の骨だか分からない人間の顔を見てさえ、時々ありがたいという気が起きるなら、円満な神の姿を束の間も離れずに拝んでいられる場合には、何百倍幸福になれるか知れないじゃないか」と言うと、一郎は「そんな意味のない口先だけの論理ロジックが何の役に立つものかね。そんなら神を僕の前に連れて来て見せてくれるが好い」と切り返します(同書386頁)。そこには、表面的な論理命題の作出や処世に役立つお手軽哲学ではなく、深層にあるもの、奥底にあるものへ本当に迫っていこうという一郎の誠の心が息づいています。

Hと一郎との別の会話があります(以下引用の「私」は「H」のこと)。

「じゃ君は全くを投げ出しているね」
私「まあそうだ」
「死のうが生きようが、神の方で好いように取り計らってくれると思って安心しているね」
私「まあそうだ」
私は兄さんからこう詰寄せられた時、だんだんあやしくなって来るような気がしました。けれども前後の勢いが自分を支配している最中なので、またどうする訳にも行きません。すると兄さんが突然手を挙げて、私の横面よこつらをぴしゃりと打ちました。・・・(中略)・・・
「何をするんだ」
「それ見ろ」
私にはこの「それ見ろ」が解らなかったのです。
「乱暴じゃないか」と私が云いました。
「それ見ろ。少しも神に信頼していないじゃないか。やっぱり怒るじゃないか。ちょっとした事で気分の平均を失うじゃないか。落ちつきが顚覆てんぷくするじゃないか」

同書402-403頁

神を持ち出すHに、「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」(マタイ伝福音書,第五章,39『舊新約聖書』神戸英国聖書協会,1927年)を範型として思わせる言動で迫る一郎にはやはり、浅薄な真理命題など何の意味もないのだと冷徹に実証する姿勢があり、その姿勢は、何とかして実相を極めていきたい、真実に迫っていきたいという清らかともいえる誠の心が脈動しているといえます。


他方で、一郎には傲慢さがはっきりと見えます。

流動し無限の諸相を見せる海を愛せず、当の二郎に実験道具になれと依頼する一郎には、自然や相手への敬意が感じられない。相手が生成変転し流動してやまない不可思議な現実であることを認めず、固定した何かであって欲しい、少なくとも固定した何かであると仮定してつかむことができるはずだという、傲岸不遜な態度があります。

考えているところがあると言う二郎に対し一郎は、「いや御前の考えなんか聞こうと思っていやしない。…」(同書142頁)として自分の予定した思考を押し付けます。激して「軽薄児め」と言い放つ(同書257頁)。あるいは「神は自己だ」(同書409頁)と言い「僕は絶対だ」(同書410頁)と言う。自己の観念で世界を見るが、現実に裏切られ、それゆえに苛立ち当たり散らしていきます。直を打ち据えても彼女は気高く耐えるから、自身の卑小さを鏡で突き付けられたように感じ、自分の優越を誇りたいという意識が相手に投影されて、《直は優越を誇りそれを俺に見せつけるという冷酷な態度をとる》と顚倒した結論となってしまうのです(同書392-393頁)。



3 帰結

一郎の傲慢な自己意識はぶくぶくと肥大化し、育ちゆく樹は奇怪に捻じれて天空ではなく横に伸び、ますます捻じれては自己倒壊に至るでありましょう。

詩が正気であるのは、無限の海原に悠然として漂っているからである。ところが理性は、この無限の海の向こう岸まで渡ろうとする。そのことによって無限を有限に変えようとする。その結果は精神がまいってしまうほかはない。大西洋を泳いで渡ろうとした男の肉体がまいってしまったのと同じことだ。あらゆるものを受け容れることは適度の運動となる。あらゆるものを理解しようとすることは過度の緊張となる。詩人の望みはただ高揚と拡大である。世界の中にのびのびと身を伸ばすことだけだ。詩人はただ天空の中に頭を入れようとする。ところが論理家は自分の頭の中に天空を入れようとする。張り裂けるのが頭のほうであることは言うまでもない。

G.K.チェスタトン(安西徹雄 訳)『正統とは何か』20-21頁(春秋社,2019)


一郎の実証主義はどこにその証拠を見いだすか。それが皮肉なことに、一郎自身の精神なのです。精神に変調をきたす一郎自身に、実証的証拠があがっていくことになります。






【雑多メモ】
〇漱石の圧倒的筆力を感じる名作。
〇仮構現実と虚構を織り交ぜた検証不可能なイデアを作り上げて人々をせっせとその妄想的野心の燃料にくべようとするタイプの人間の形而上学からすれば、実証主義的態度はよほど優れている。ただ実証主義には限界があり、みなそれに悩んでいる。
〇一人の人物(漱石自身?)に二つの特徴群を見いだし、それぞれの特徴を一気に誇張して二つに分けて一郎と二郎が造形されている。体型や、鷹揚とせっかちな性格という違いはあるが、一郎との対比では明らかにHは二郎型に属する。そのため、物語の後半に語り手が二郎からH(の手紙)に代わっても、読者はその接続態様に違和感を感じない。
〇「彼は基本的に過去を向いていて、憎み恐れる未来を向こうとしない。これに関連しているのが、確実性を求めてやまないことである。しかし人生には確実なことはないし、予測不可能で、支配することもできない」(エーリッヒ・フロム(渡会圭子 訳)『悪について』47頁,ちくま学芸文庫,2018).






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