すみれぐさ
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写真と俳句 その二十
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大津に出る道、山路を越(へ)て
山路来て なにやらゆかし すみれ草 芭蕉
貞享元年(1684年)8月 ~貞享2年4月末
「野ざらし紀行」 ( 別名「甲子吟行」「草枕」「芭蕉翁道の記」)
松尾芭蕉 41歳〜
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こちらになる前の句も残っています。
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何とはなしに なにやら床し 菫艸 芭蕉
貞享二年(1685年)3月27日 法持寺
何となく 何やら床し すみれ艸 芭蕉
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この句は、熱田白鳥山にて詠んだものと伝わります。
芭蕉は、この句を発句とし、桐葉、叩端と、歌仙を巻きました。桐葉の次女が幼くして亡くなったその姿を、すみれ草に擬えた言われているそうです。
白鳥山とは、白鳥御陵(日本武尊の陵とされていました*1)を指しています。
法持寺は、御陵の宝物を護持する寺でした。その意味合いにおいて、当初は宝持寺とされていました。
桐葉の菩提寺となっているようです。
桐葉の住まいは、熱田神宮のすぐ南で、当時は海に近く、広大な敷地を有していたと言われています。旅の途中、ここで休むことができた芭蕉は、安堵されたことでしょう。
その住居跡のすぐそばに、松姤(まつご)神社があります。
ご祭神は、日本武尊の妻である宮簀媛(みやずひめ)、もしくは宮簀媛の兄で日本武尊と共に戦った建稲種(たけいなだね)と言われています。
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白鳥御陵は、熱田神宮の西、350メートル程度の場所にあります。
「古事記」「日本書紀」に、「ヤマトタケルは東征の折、この尾張の地で豪族の娘ミヤズヒメと結婚の約束をかわしましたが、東征の帰途、病気がもとで亡くなり、白鳥となり飛び去りました。」という内容があります。
この白鳥となった日本武尊が降り立った場所が白鳥御陵で、ヤマトタケルへの思いを抱いて一生を過ごし亡くなった 宮簀媛(ミヤズヒメ)の墓が、断夫山古墳であると伝えられています。*2
白鳥御陵の北、約350メートル先に、断夫山古墳はあります。
*1) *2)
現在では、白鳥御陵や断夫山古墳が造られたのは、6世紀初頭ではないかとされています。娘が継体天皇に嫁いだことで、大和朝廷との結びつきも強かったことから、尾張氏の首長だった尾張(連)草香(おわりの(むらじ)くさか)の墓ではないかと、考えられています。
上記が正しいのでしょうが、草薙剣の創祀のための熱田神宮から、白鳥御陵や断夫山古墳までの位置関係などからも、これらの伝説について、納得してしまいます。
少なくとも、1000年以上は、語り継がれてきたと思われますので、そのことも重く捉えたいものです。
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ご存知の通り、本居宣長は、「古事記伝」を著しました。この地での思いも一入だったことと、考えられます。
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芭蕉の歌仙会が開かれた法持寺は、天長年間(824〜834年)、弘法大師 空海が、熱田神宮へ参籠した際、 日本武尊を慕って、延命地蔵菩薩を彫り、それを本尊とし、小祠を建立したのが草創とされています。
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すみれ艸 どうか何とか 生きてこそ 広在
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