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日本×キューバ夫婦のアラバマ子育て物語 第11話 英語だけがアメリカじゃない
この連載は、アラバマ州タスカルーサに住む日本出身の著者とキューバ出身の妻ダイレンが、文化と言語と社会のはざまで右往左往しながら、初めての子どもヤスオ(仮)を育てる物語です。出産予定は2025年4月15日。1話ずつ単独でも読めるように心がけていますが、まとめて読みたい方はこちらのマガジンよりどうぞ。
「あなたがいちばん話しやすい言葉で、赤ちゃんに話しかけてあげてください。英語のほうがいいとか、そんなことはありません」
じぶんの母語が通用しない場所で子育てをするのは不安だらけのものだから、この言葉をきいた聴衆からは、ほっとしたようなため息がもれた。それから同じ言葉がスペイン語でも繰り返された。美しい響きだった。
ぼくたちのまわりに座ったメキシコ人カップルも、スリランカ人カップルも、グアテマラ人カップルも、中国人カップルも、みんなうなずいている。ダイレンもぼくもうなずいている。
「あなたの言葉で、たくさん話しかけてあげてね」
そんな励ましが、ぼくたちにはうれしかった。この温かい集まりが、冷たい力にあんなふうに脅かされてしまうとは、このときはまだ知らなかった。
* * *
年が明けてから、素敵な子育て教室に通い始めた。なにが素敵かというと、まずはこの名札だ。
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申し込み用紙の名前の欄に、ボールペンでHirofumi Ariyoshiと書いて提出したから、それを見て用意しておいてくれたのだろう。うん、だいたい合ってるね。fとtなんて、ソとンくらいそっくりだ。ヒロトゥミ・アリヨシ、響きもいいし、気に入った。首から下げると、ダイレンが「ハーイ、ヒロトゥーミ」と言ってにやにやしている。
名札の右下に貼られている青いシールは、これから親になる予定で、かつ、英語を話すひと、という目印。全部で4つの区分があり、これから親になるスペイン語話者、すでに子どものいる英語話者、すでに子どものいるスペイン語話者には、それぞれ緑と赤と黄色が割り当てられている。
初日におどろいたのは、職員たちがほぼみんな英語とスペイン語のバイリンガルだということ。参加者が首からさげた名札のシールの色をみて、英語とスペイン語を自在に切り替えて話しかけてくる。都市部ではもはや当たり前の光景なのかもしれないが、アラバマの片田舎ではここまでのバイリンガル状況は体験したことがなかったので、ヒロトゥミは感動した。
主催する市民団体に加えて、ラテン系住民の支援組織も運営に協力しており、近辺のスペイン語話者たちが集まっているのだという。60人ほどの参加者のうち、名札にスペイン語をしめす色のシールがついた、おそらく中南米にルーツのあるひとたちが半分強。英語の色のシールがついたひとたちの多くは各地からの移民や留学生で、アメリカ生まれアメリカ育ちといった風情のひとたちは数えるほどしかいない。
ほかの子育て教室だと毎回何十ドルもかかるのに対し、この素敵な教室は無料である。それどころか、毎週土曜日の朝9時に小学校に集まるとまずは朝食が出され、3時間ほどのクラスが終わると昼食が出る。しかも行くたびに、絵本とか、子どものおもちゃとか、いろんな育児グッズをくれる。しまいにはPack And Playと呼ばれる近頃人気の持ち運び式ベビーベッドまでいただいてしまった。公的社会保障が少なめなアメリカだが、こうした民間の慈善事業があるのはありがたい。
絵本はこれまでに20冊以上もらったが、大半が英語とスペイン語を併記したバイリンガル版だった。さっそくダイレンが毎晩、胎教に読み聞かせているのをとなりで聴いて、ヒロトゥミはスペイン語を勉強している。ヤスオには負けられないからね。
* * *
初回のクラスは、では乳幼児の言葉の発達のことが話し合われた。講師はlanguage nutrition(言葉の栄養)という用語を使って、言葉がこどもの発達に欠かせない栄養であることを説明した。どうりでたくさん絵本をくれるわけだ。
新生児は英語にして1時間あたり2000ワード程度の言葉を聞く必要があるらしい。1時間に15分くらい話しかけるとこれくらいになるそうだ。オムツを替えたり授乳をしたりするあいだじゅう、実況中継のように話し続けるのがいいという。
声を高めにして、ゆっくりはっきり話すのが、赤ん坊には聴き取りやすいそうだ。これをParenteseと呼ぶのだとか。Japanese(日本語)、Chinese(中国語)、ならぬ、Parentese(親ことば)、というわけだ。英語の聴き取りにいまだに苦労するヒロトゥミとしては、Parenteseをぜひアメリカの公用語にしてほしいと思う。
ただし、相手が赤ちゃんだからといって、マンマとかブーブーとかワンワンみたいな赤ちゃんことばではなく、まともな単語と文法を使ってくださいね、と講師は言った。たしかに、日本のこどもにくらべて、アメリカのこどもは大人みたいな喋り方をする。2歳になりたてのこどもに「Be patient!(我慢しなさい)」と言われたときには背筋が伸びた。
すると、参加者から質問が出た。「英語の文法や発音には自信がないのですが、どうしたらいいでしょう。それでも英語だけで話したほうが、こどもの将来のためでしょうか」
「あなたがいちばん話しやすい言葉で、赤ちゃんに話しかけてあげてください。英語のほうがいいとか、そんなことはありません」。講師はそう力強く答えてから、笑顔で言った。「あなたの言葉で、たくさん話しかけてあげてね」
こんどはグアテマラ出身の女性が、通訳をとおして質問した。
「わたしたち夫婦は、スペイン語とグアテマラの言葉を使っています。このふたつの言語に、外で使う英語をあわせて3言語になって、こどもは混乱しないでしょうか」
「ノー・プロブレム」と講師は太鼓判をおした。「たくさんの言語を聴いて育つのは素晴らしいことです。ぜひ、スペイン語とグアテマラの言葉でたくさん話しかけてあげて」
もちろん、複数言語を併用することで生じる困難も実際にはあるだろう。ヤスオが生まれる4月までには、しっかりした科学的な研究をひもといてみたい。それでも、母語の通じない土地で初めてのこどもをむかえる不安な親たちにとって、こうやってじぶんを認め、励ましてくれる言葉はチキンヌードルスープのように温かかった。アラバマの片田舎にもこんな場所があることがうれしかった。
* * *
ところが、2月1日の朝のことだった。3度目の子育て教室にむかうと、クラスの雰囲気がいつもとちがった。
「なんか今日、ひと少なくない?」とダイレンが言う。
「ね、みんなどうしたのかな?」
「風邪でも流行ってるのかな?」
「そうかもね、最近寒かったし」
ふだんは満席になる会場の体育館にはいつもの半分くらいしかいない。スリランカのカップルと中国のカップルと挨拶をかわしてから、ぼくたちは席についた。
この日の講座では、こどもにとって「安全な場所」のことが話し合われた。危険のない寝床といった身体的な安全にくわえて、心理的な安心を育むことも大事だと講師たちは強調した。赤ん坊の情緒を育てつつ、自分自身の感情の揺れにも目をむけて、ちゃんとケアすること。そして、赤ん坊が「ここは安全な場所なんだな」と感じられるような場をつくってあげること。そんな話をしたあとに、講師が言った。
「みなさん、今日は参加者が少ないですよね。いろんなニュースを耳にして、ここに集まるのも怖くなって、来れなかったひとたちがいるのだと思います。でも、ご友人たちに伝えてください。ここは安全です。わたしたちの教室は安全な場所です」
アメリカ各地で移民税関捜査局(ICE)が、滞在許可のない移民のひとたちを次々に拘束しているというニュースが、数日前から聞こえてきていた。トランプ政権が掲げる「史上最大の強制送還作戦」で、この日までに7400人を拘束しており、移民のひとたちは「そこらじゅうにICEがいる」と噂しあっている。ICEの冷たい手をおそれて外出を控えているため、ラテン系住民の多かった店や職場は閑散としているそうだ。
この日、子育て教室のメンバーが来なかったのは、そういうわけだったのだ。慣れない子育てだけでもじゅうぶん不安だろうに、いったいどれだけ怖いことだろう。
ICEは長年、学校や病院や教会といった「保護地域」では拘束を控える方針をとってきた。子どもが学校に通ったり、傷病人が治療を受けたりするのをためらうことがないようにという配慮だった。しかし、トランプ政権は「犯罪者に隠れ場所はない」としてこれを撤回してしまった。
だから、いくら講師たちが安全だと言っても、学校の前にICEがやってきたら、逃げられないはずだ。すくなくとも、恐怖におちいったひとびとはそう考えるはずだ。
家に帰ると、キューバのおばあちゃんからダイレンに電話がかかってきた。やはり大量拘束のニュースを見たという。「危ないから、しばらく外に出るんじゃない。なんぼあんたがビザをもってたって、顔を見てラティーナだと思ったら、どうせ捕まえるんだから」
来週の子育て教室がどうなるのか、ぼくたちにはまだわからない。
* * *
アメリカはこうも不安定だが、お腹のヤスオの蹴りは日々強くなり、着実に成長している。すでに妊娠後期に入り、まもなく30週目だ。平均値では、3パウンド(1360グラム)になっているころだという。
戸棚から3パウンド入りの黒インゲン豆の袋を出して抱いてみると、ずっしりと手に重い。あと数ヶ月で人間がひとり増えるなんて、いまだに信じられないけれど、両手でかかえた3パウンドの黒インゲン豆には、たしかな存在感があった。戸棚には4パウンドの袋の米もある。豆と米の袋をあわせると、ちょうど7パウンド(3175グラム)。新生児の重さだ。
第12話 想像力の図書館 につづく
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