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菅原博文
2025年1月31日 02:43
ずっと以前に、自分の小説の中で、熱、という言葉、概念を提出しました。定義としては、先ず、人の活動がはらんでいるもの。例えば、夜中に、どこか街のスポットで、数人の人間が楽器を演奏する。それを聴く人々もいる。そうした人間の活動が原初的に孕んでいるものを、物理学の熱量という概念を借りて、あるいは熱量という概念そのままに、熱と呼ぼうという提案です。こうして人がパソコンのキーボードを叩いて文を書いているのに
2024年12月26日 05:41
「人間の心だけが、事物をリアルにする」と書いたが、自然物の場合、「 意味」は自然の側にあるのか、人間の側にあるのか。人間の側にある、とする、それはそれでもっともな見方がある。話は急転回するが、人間がいなければ、「意味」もないのではないか。少なくとも、そう考えるに足る理由があると思えるからである。では、自然の側には「意味」はないのか。このような難しい議論は、筆者一人の手に余るが、そのような視点もある
2024年12月26日 04:24
というのは、このようなことである。説明が難しくて、失敗するかもしれないが、トライしてみる。たとえばこのような事があろう。私が目の前にしている本は、紙とインクと接着剤でできているだろうが、極微まで煎じ詰めれば、現在の物理学を信頼する限り、素粒子(クオーク)と力で形成されている。私たちの身の回りにあるもの、身の回りにないもの、全てがクオークと力でできている。だから、この本というものも、最終的に、人間に
2024年12月26日 03:30
或る、いくつかの木材を組み合わせたものを「机」として認識するのは、人間の認知の能力である。人間がいなければ、机はただの木材片であり、また木材を木材として認識するものもいない。人間の心だけが、物事をリアルにする。そしてそれは、人間にとっての「リアル」なのである。そして、人間にとっては、机と同じく、木材もまたリアルな存在である。
2024年7月13日 15:34
ミシェル・フーコー「言葉と物」の最後の部分に、「人間の終焉」という有名な部分があって、記憶頼りで書くと、人間というのは近代の発明物にすぎず、時がくれば早々に消えさえるものだ、と言った概要だったと思う。ここで、「人間の終焉」と言っても、人間が生物学的にいなくなるという意味ではない。私の理解によれば、「人間」という概念は西欧近代以降の発明物、知的な折り目であり、時がくれば早々に用を足さなくなる、私たち
2024年2月8日 05:19
私たちは、無信仰な自然に抱かれて生きている。それ自身、ヒトでも生物でもない「自然」が無信仰であるという考え方を通常はしないが、読者が擬人化などで理解することを期待して論を進める。「差異と反復」に於いてドゥルーズは、《自然》(ピシュス)は無信仰であるという。人間が信仰を持とうと持つまいと、自然は無信仰であるという。それは、単に物の集まりが無信仰であるとは異なる意味を持つように思える。自然というシス