映画『バービー』を観て

 正直に言えば、ライアン・ゴズリングを目当てで観に行った。
 ブレードランナーのKがバービーのケン(Ken)というだけで、もう面白い。ずるいではないか。
 ライアン・ゴズリングはよく名前が間違われる、ライアン・レイノルズが頻繁に演じる軽薄でひょうきんで間の抜けた役から、Kのような役まで、実に幅のある演技をみせる。私が特に好きなのは『ナイスガイズ!』で、ラッセル・クロウにボコボコにされながら振り回される様子は実に痛快で、見応えがある。
 ライアン・ゴズリングに惹かれてトレーラーもチェックせずに観に行ったので、2001年宇宙の旅のパロディで身を乗り出し、シャン・チーのシム・リウ、グラヴィクのキングズリー・ベン=アディルに興奮し、一瞬映ったジョン・シナのカメオ出演でテンションが上がった私のような人間に『バービー』を語る資格は、ほぼないだろう。が、敢えて言うならば、そのようなスーパーヒーロー映画を好み、マッチョイズムを否定しない人間から観ても、『バービー』は居心地の悪い感じにさせられなかった点で、とても良い映画だったと思う(居心地が悪くならない私が無自覚な差別主義者である可能性もあるが)。

 よく観測していないが『バービー』は日本国内でも多少の議論を引き起こしたようだ。
 確かに、アメリカの政治やハリウッドの制作現場に至るまで、ジェンダーだとか政治的な正しさだとか人種に比率などはかつてないほどに重視されている。政治家は発言ひとつひとつの政治的傾向が吟味され(これは今に始まったことではない)、アカデミー賞の選出にはバイアスがある、と信じられている。差別に対する意識をアメリカ人ほど生活に浸透させ内面化していない日本人からすれば、異常に見えることは仕方がない。ただ、そういった正しさについての闘争は今に始まった問題ではなく、アメリカは建国以前から今に至るまで、特に1900年代以降、繰り返し自問自答を続けている。であるから、作品そのものにしっかりと目を向けてみれば、仮にアカデミー賞に偏向が認められるとしても、ハリウッドに圧力がかかっているとしても、そういった政治的過熱に対して、映画は至極冷静に、慎重に創られていることに気付く。
 大体において今どき、バカな男の支配から抜け出そう!といった無分別な主張を試みようとする作品を見つけることの方が難しい。それは、誰かの居心地を悪くすることがショービジネスにおいて合理的ではない、という判断なだけかもしれないし、差別問題とは別に観客全てを楽しませようとするショーマンシップによるものかもしれない。知的な面白さを用意することもできない。いずれにせよ、特定の誰かや何かに属する人々を必要以上に貶めるような作り方は避けられている。そして、それは『バービー』についても同様であり、『バービー』に過剰なジェンダー論の主張を見出そうとする人は、その人自身が、あらゆる作品にあらゆる形態でジェンダー的要素が散りばめられているという認識に落ち込んでしまっているのではないだろうか。

 『バービー』が巧妙であるのは、「異性に対して理解があるという自分に陶酔している偽装された差別主義者像」を、コミカルなマテル社経営陣に負わせることで、男性を含めた観客に自分は彼らと同じではないと思わせたところにあろう。少なくとも、鑑賞している間は、自身の差別的意識に気付かずに済む。
 バービーにはバービーの悩みがあり、ケンにはケンの悩みがある。ああ、そうやって決まったバービー像やケン像に押し込まれることは、ケースに放り込まれるように苦痛なのだ。誰かが勝手に決めた売り文句に従う必要はない。もしくは、誰かが勝手に決めた売り文句に気付かず縛られているのではないだろうか。そういった問いかけを『バービー』は与えてくれる。
 併せて、女の子にとっての理想である人形バービーと、女の子の現実世界での理想が時代と共にパラレルに、相互に影響を与えてきたことも大事なモチーフとなっている。大人になることはバービー人形から離れることであるし、一方で大人になってしまったからこそ、かつての理想であったバービー人形に惹かれることもあろう。女の子とバービー人形の関係性は、バービーランドと現実世界の結びつきとして描き出されており、バービー人形の映画としても完成されている。ジェンダー的な問いかけとバービー人形の歴史を丁寧に織り込んだ『バービー』は、バービー人形に縁の無かった私にとっても、極めて腑に落ちる、強く感心させられる映画であった。

 ところで、感傷的内省的あるいは自己批判的な人間ならば、この映画が与えてくれた高揚感と満足感のほとぼりが冷めていくうちに、自らに対して疑念を抱くだろう。もしかしたら、自分にも気付いていない差別意識があるんじゃないだろうか。差別意識がないと思っているのは独り善がりなんじゃないだろうか。
 マテル社の経営陣はシンプルに、そしてコミカルに描かれているが、それを分解しようとするとやや複雑な話になる。
 異性に理解を示す人間と、理解を示すフリをした差別主義者にはどのような違いがあるだろうか。それはどのようにすれば見分けられるのだろうか。見分けることに成功したとして、後者が前者よりも良い条件を提示するとき、それを撥ねつけることは容易いだろうか。
 異性に理解を示すフリをした差別主義者と、ただの差別主義者、どちらが悪いのだろうか。
 異性に対して理解がある自負を持った差別主義者を説得することは可能だろうか。彼らの理解が間違っていると指摘する時、指摘する人間が差別主義者と罵られることは避けられるだろうか。
 いずれも簡単に答えることはできない。特に問題であるのは、作中でもマテル社の経営陣がバービーを懐柔しようとしたように、理解を示すフリをした差別主義者はしばしば支援を表明する。顕著な例として、アファーマティブ・アクションがある。アファーマティブ・アクションの善し悪しについては敢えて触れないが、この支援は相手に継続的に下駄を履かせるような施策である場合、相手をそのような劣った地位に固定し続けることを意味する。この支援される人と支援する人という構図も、上下関係をより強固にしてしまう。たちの悪いことに、理解を示す差別主義者はそれが本当に良いことで相手の助けになると思っているので、これに対して異議を唱える人間が差別主義者扱いされてしまうのである。
 この「理解を示す」ことについて、ジェンダーではなく人種の視点から扱った作品として、ジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』がある。この作品では、黒人を理解し憧れている(つもりの)白人たちが、いかに黒人について無知で無理解であるかをグロテスクなまでに描いている。『バービー』がジェンダー版『ゲット・アウト』とは言わない(明らかに言うべきではない)が、提示しようとしている問題は同質だ。

 文字をこねくり回すのをやめて、より広範に実践的に考えるのであれば、相手を理解できているという思い込みには常に注意すべき、だろうか。ここで言う「相手」とは単なる個人でもあるし、異性や異なる人種、世代、等々が広く含まれる。思いやりをやめろというわけではない。思いやりは何より重要だ。しかし、共感は麻薬であり、同情は快楽である。相手を理解し思いやっている自分に酔うばかり、相手の核心的な利益を見落とし、損なってしまうことは珍しいことではない。思いやりが相手のためなのか、自分のためなのか、俯瞰的に捉えることは互いにとって悪いことではないだろう。

 つらつらと書いて思うのは、『バービー』はこのようなことを考えて、観るべき映画ではない。もっと楽しんで観るべき映画だろう、という酷い結論である。少なくとも、『バービー』だけから考えるだけでは男女の問題にしろ理解の問題にしろ、良い答えは見つからない。『バービー』のような映画がもっともっと創られることを歓迎し、議論が可能になり、議論が積み重なることに期待したい。

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