「忘れることは新しく生きること」 アルツハイマー型認知症患者との向き合い方
賑やかな商店街のある街のアパートで暮らしていた頃、祖母の家があるこの馴染みの商店街をぶらぶら歩くのが好きだった。
少しゴム臭のきつい紳士靴が軒先に並ぶ洋品店や、いつ覗いても店主が不在で営業しているのか分からない合鍵屋。丸っこいメンチカツが揚がる匂い。
そんないつも変わらない商店街と、それぞれの生活を営む買い物客を眺めて歩くのが好きだった。
ある日いつものようにメイン通りを歩いていると、交差点の角にある店の看板がなくなり、テナント募集中と書かれている。
はて、ここは何の店だったかと考えるが、一向に思い出せない。
先週までその店は確かに存在していたはずなのに、まるでずっとテナント募集中だったかのように、頭の地図が書き換えられている。
この商店街でかなりの年月を過ごしてきたはずなのに。
似たようなことは何度もある。すぐに思い出せることもあるが、最後まで思い出せないことの方が多い。
これまで生活を彩っていたものが存在していたのに、もう思い起こされることがないと思うと、寂しさを感じる。
そのうち新しい店ができて、人々はなんの不自由もなく暮らしていくのだろう。
それが私達の日常だ。
新しい日常はコーヒーに入れた角砂糖のように、あるときは確かに存在するが、やがて日常に溶け去り、存在を忘れられてしまう。
しかし、その日常は以前よりも豊穣さを増していると信じたい。
私は過去の出来亊や、誰かから聞いた話をあまり覚えていられなくて、よく呆れられる。
むかし大ヒットしたドラマの俳優の名前や、きのう何食べた?という質問をされると困ってしまう。
嫌なこともすぐ忘れてしまうので、その点はメリットと感じているが、覚えていれば不便を感じずに済んだ経験が、何度もある。
それから、忘れたくない記憶の大半は「Evernote」の中にしまうようになった。
見たり聞いたり経験したことをいつまでも覚えている自分と、記憶の大半がクラウドに保存されている自分。
どちらがより本当のわたしと言えるのだろうか。
46歳でアルツハイマー病と診断され、認知症患者の支援活動も行っているクリスティーン・ブライデンは手記「私は私になっていく 認知症とダンスを」のなかで次のように語っている。
認知症の方は時間を認識することが難しいので、過去や未来のことを考えるのは苦手だが、今その瞬間を懸命に生きていること。
認知症と診断され日常生活が上手くできなくなっても、その方には認知症になる以前からの人格が備わっているので「無能者」のレッテルを貼るのは誤りであり、これまでと同じように人格を尊重して接するべきであること。
忘れるというのは毎日が新しくなることで、それはそれで新しい生き方なのではないかという著者のメッセージに感銘を受けた。
過去や未来にとらわれず、今だけを見据えて生きるのは、もっともその人らしい生き方なのではないか。
晩年に認知症を患っていた祖母は、手作りのキーマカレーを食べさせたとき、「こんな美味しいカレー食べたことがない」と喜んでくれた。
以前にもキーマカレーを食べた事があるかどうかは定かではないが、目の前のカレーをひたむきに楽しんでくれていた祖母の姿を思い出すと、胸が熱くなる。
いまは祖母が暮らしていた商店街とは別の街で生活しているが、懐かしくなってたまに訪れる。
立ち並ぶ店はすっかり様変わりし、当時の記憶も薄れつつあるが、今の商店街の雰囲気を楽しみながら、たまに祖母の面影を偲(しの)んでいる。
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