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冗長な文章が持つ意味

私は文章を書くとき、ある程度の長さを好む傾向がある。
特に書きながら自分の考えをまとめたいとき、あえて冗長に書くことも多い。

自分の冗長な文章を読み返すと、確かにやたら長ったらしく、重複している内容も目立つ。
しかし、重複した内容というのは、自分が特に言いたいことや、自分の中で何かが引っかかる部分であったりする。

何か自分の中で思い入れがあるから、何度も繰り返し書いてみたくなるわけだ。
そして何かが引っかかりながらもうまく言葉を紡ぎ出せない、そんなとき、表現が冗長になったりもする。

この過程を繰り返すと、自分の中で考えが自然とまとまってくる。
長ったらしい文章が、一見無駄に見える重複箇所が、考えをまとめる際に必要な一つ一つのピースになる。
私が文章を書くのを好む理由の一つだ。


ただし、仕事で何か文を書くとき、冗長な文章は好まれない。
それより、わかりやすく簡潔な文章が好まれる傾向がある。
かくいう私も、仕事で扱う文に関してはわかりやすく簡潔に書く。

そもそも現代人は時間的な余裕が少ない。
それが良いか悪いかはさておき、仕事でもプライベートでも時間に余裕がない場面は多々ある。
そこで何か文章を読んで情報を得たいなら、当然わかりやすく簡潔な文章を好むだろう。

時間に余裕があれば長ったらしい文章も読めるが、現実問題として時間の余裕がないのだから仕方ない。

ニュース記事の文章がわかりやすく簡潔にまとまっているのも、読み手に多くの時間を取らせず情報を簡潔に伝えるためである。


しかし、だ。

だからといってわかりやすく簡潔な文章が絶対的な正義とまでは言えない。
冗長な文章が絶対に悪だとも言えない。
最近、長文を小馬鹿にするような風潮も見られるが、それが良いとも思わない。

例えば小説や文学の文章がわかりやすく簡潔であれば、はっきり言ってつまらないだろう。
遊び的に冗長な表現を入れたりするのもまた文章の面白さであるはずだ。
特に好きな作家の文章であれば、冗長な表現だろうがなんだろうが大抵の読み手は時間がかかっても読むだろう。

要するに、どんな文が適切か?というのはケースバイケースだ。
ニュース記事で長ったらしく冗長な文章はまず好まれない。
一方、小説や文学の文章がわかりやすく簡潔であれば、そこに「深み」は足りない。


では、私のこのnoteはどうか?
これは何度も言っているが、私のnoteは仕事と関係ない場で書きたい時に書きたいことを書く場所である。

時事的な内容を扱う時は簡潔に書きたいが、書きながら自分の考えを深めたいような場合、やはり私は冗長な文章を好むだろう。

それが人様に好まれるかどうかはわからない。


さらに言うと、私は他人が書いた冗長な文章を読むのも割と好きなのだ。

たとえ重複した内容が多くても、言い回しが冗長でも、そこから読み手の気持ちを察していきたい。
意外にその中で深い思考が眠っていたりする。

私はどちらかと言えば文章を書くより読むほうが好きなので、このような考えになったのかもしれない。


私ごときのnoteで偉そうなことは言えないが、内容が重複しようが表現が冗長であろうが、書きながら一つ一つの内容を深く考察し、思考を深めていく。
そのために私はあえて長ったらしい文を書くこともある。

文章は面白い。

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