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【日記】10年前の三宝寺池、当時24歳の自分

Googleフォトを開いたら、10年前の今日の写真が出てきた。

Googleフォトは上部に「〇年前」「あれから〇年」といった形で過去の写真がピックアップされる。
そして今日、10年前の2014年5月7日の写真が現れ、そのうち数枚が東京都練馬区にある三宝寺池の写真だった。

過去にインスタグラムでその写真を投稿したことがあるので引用。


三宝寺池は私が幼少の頃よく行っていた場所でもある。
そして10年前もちょくちょく散歩で訪れていたのだ。
写真を見て、その10年前のことをふと思い出したので日記にまとめたい。


その当時私は24歳で、年相応にいろいろ悩み、つまずき、諸事情で思うように行動できず、何かと考え込んでしまう日々を過ごしていた。
また、何かに対して怒りを覚えることが非常に多かった。
自分の身の回りのことだけでなく、世間情勢に対する怒り、政治に対する疑問、ネットで軽率な発言が溢れる風潮への呆れなど、底知れぬ怒りを覚えたものだ。

今思えば、あの頃から本格的に散歩を習慣化していたように思う。
当時、年相応に感じていた諸々に対する怒りも、散歩をすればフッと静まった。
散歩中に考え事はしないし、何も考えない時間を経て気持ちがスッと落ち着くわけだ。
上記写真の三宝寺池や石神井公園エリアも、幼少の頃からよく知る場所であるほか、知人が近くにいたこともあり、頻繁に訪れて散歩をしていた。


何かに対する怒りそのものは、今でも悪いことだと思っていない。
ただ、怒るだけでは冷静な視点を持つことができないのも事実だ。

ある出来事に対し、私が理不尽に感じて怒りを覚えたとしても、赤の他人はそう思わないかもしれない。
自分の見方だけが全てではなく、捉え方は人によって違う。

今思えばこんなことは当たり前の話だが、24歳の私は自分の見方が全てだと思いがちで、年相応にいろいろなことに怒りを覚えたものだ。
20代前半は10代の延長と言えるかもしれない。

そんな気分のとき、気持ちを落ち着けるために頻繁に散歩をするようになった。
上記の三宝寺池の写真も、まさにその一環で撮ったものだろう。


一方、あれから10年経ってわかったことがある。
それは、30代以降でも「自分の見方だけが全てではなく、捉え方は人によって違う」という思考ができない人が一定数いる、という事実だ。

20代だけでなく、30代40代、さらに50代以降の世代でも、自分の見方が全てかのように錯覚する人は多い。
自分の考えを主張すること自体は良いが、それが全てだと錯覚してはいけない。

かく言う私も、時に感情的になることもあるし、自分の見方が全てかのように思ってしまうこともある。
自戒を込めて、悪癖は改善していかなくてはならないだろう。
言動は冷静でなければならない。


あれから10年。
短いようで長かったと思う。
写真を見て、この10年のことをいろいろ思い返していた。

よく「長いようで短かった」という言葉を耳にするが、私は上記の写真を見て「短いようで長かった」という感想を抱いた。

歴史の中で10年は大した時間ではない。
しかし、私にとってこの10年は非常に長かったのだ。
未熟ながら、10年前より多少は冷静な視点を持つことができたように思う。
そんな思いになれたのも、残っていた10年前の写真のおかげだ。


さて、三宝寺池や石神井公園の歴史とは全く関係のない私個人の話になってしまった。
幼少の頃より知る場所のため、歴史等に関してはまた違う機会にまとめたいとも思う。

ただ、過去の写真を振り返ることは、「この場所、懐かしいな」と思い出に浸るだけではない。
「あれから自分がどう過ごしたか?」を思い返す貴重な経験でもある。

その写真の場所を超えて、さらに大きな意味を持つものだ。

過去の写真を見て、今までの時の流れ、世間情勢の変化、自分の変化、逆に自分の中で変わらないものなど、思いを馳せるのも面白いかもしれない。

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