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「監視社会化」を考える本 3選
最近、コロナウイルスの流行を巡って、ジョージ・オーウェルの「1984年」が、再び脚光を浴びている。
〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は以前より、完全な屈従を強いる体制に不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるのだが…。(裏表紙より)
「1984年」は、監視社会化した未来を描いた小説の金字塔である。書名を耳にしたことのある人も多いのではないだろうか。
「1984年」の世界では、人々は監視下に置かれ、一党独裁の政府の方針にそぐわない行為を行った人間は、”消される”。そこには法律もなければ裁判もない。国家による極限の市民統制が行われ、自由は存在しない。悲惨な社会である。
政府の自粛要請は「1984年」の世界へとつながる
今回のコロナウイルス流行への対策では、政府によって緊急事態宣言が出され、外出自粛が要請された。大規模なイベントなども同じく中止が要請され、多くの人が要請に従った。
2020年5月現在、この対策と人々の自粛の功を奏した結果か、新規の感染者数は日に日に減少している。
海外のいくつかの国のように、私権を制限する対策(携帯電話の位置情報の利用や、都市封鎖など)を行わずに流行を抑えつつあることに、一定の評価を下す声もある。
では、私権の制限された度合いが海外と比べて低い日本は、より「監視社会化」からは遠いといえるだろうか。
私は逆に、私権の制限が限定的であった日本こそ、「監視社会化」の危険が高いと考える。
市民と権威との一体化で、「監視社会」は成立した。
なぜ、私権の制限が限定的であるのに、「監視社会化」の危険が高いのか。
歴史上の事例から、2つの論点を提示したい。
ひとつめは、ナチスドイツに対する市民の受容である。
ナチスドイツは、違法な手段で政権を握ったのでもなければ、軍事クーデターで権力を掌握したのでもない。民主主義にもとづく選挙によって、手続き的にはきわめて真っ当に、政権の座を得ている。
しかし、合法的に政権を得たナチスドイツが、ドイツ国民を全体主義の枠に押し込み、世界の多くの人々を殺戮したことは周知の事実である。
ではなぜ、ドイツの市民はナチスドイツを容認したのだろうか。
ひとつには、第一次世界大戦後の敗戦の後で、ドイツ国民に多大な負担を強いるワイマール体制への不満の表れが指摘されている。
もうひとつは、近代社会の成立により、社会的立場の不安定化が起こり、人々は構造的な不安感を抱くようになったということが挙げられている。
経済的、社会的に不安定な状況に置かれた人々は、権威との一体化を求めるようになる。
そのようにして、ドイツの市民の自発性により、ナチスドイツは成立した。
以上のことは、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」において指摘されていることである。
「自由からの逃走」では、自由を勝ち取った民主主義社会の人々が、その自由からくる不安定さによって、逆に自由を放棄し、権威への服従に走る心理が、ルネサンス以降の歴史的動向にもとづき、学術的に論じられている。
「監視社会」は、市民の中に存在する。
二つ目の論点は、「密告」である。
冷戦期のソ連や、第二次世界大戦期の日本、ドイツなどでは、秘密警察が活動し、市民に対する思想・行動の統制を行っていた。
このような国家による統制を可能にしていたのは、実は市民からの密告であったということが指摘されている。効率的に、また市井の隅々にまで監視を行き渡らせるために、このようなやり方が採用された。
市民のなかに「監視者」が紛れ込んでいて、統制の網の目がより細かくなるということも重要なことだが、ここで問題にしたいことはそれではない。
姿の見えない「監視者」の存在により、市民の心の中には常に「見られているかもしれない」という自制の心が働く。こうなると、実際には「監視者」が一人も存在しないとしても、市民は行動を自制するだろう。
これは言わば、市民一人一人の心のなかに、ひとつの権力が機能しているということである。
こうなると、法律で決めなくても、お金をちらつかせなくても、暴力を振るわなくても、人は言うことを聞く。このような権力のあり方を指摘したのは、20世紀を代表する思想家、ミシェル・フーコーである。
フーコーは、現代社会に最も大きな影響を与えた思想家の一人である。国家がどのように人々を管理するか、権力はいかにして機能するかということについて、斬新で重要な考察を残した。
フーコーはいわゆる「ポストモダン」の思想家である。ポストモダンの思想家たちは、それまで当たり前に信じられてきた社会の在り方や機能を暴き、どのような構造で世界が成り立っているのかを解き明かした。
コロナ禍が招く”民主主義の弱点”
以上の2つの論点にもとづいて、コロナ対策に政府・国民一体となって取り組んだ、現在の社会の状況について考えてみたい。
コロナウイルスの全国的な流行を受けて、緊急事態宣言が出された。
それに伴い、国民に対しては外出自粛や大規模イベントの中止などが要請された。これは拘束力の強いものではないが、その実際的な必要性から、要請に自発的に従っている。
他の諸外国のように、拘束力のある統制に対して従うのではなく。
象徴的な事例をひとつ挙げよう。
3月22日に、大規模格闘技イベント「K-1 WORLD GP」が、国と埼玉県が開催自粛を求めるなか、さいたまスーパーアリーナで予定通り行われた。
西村経済再生担当大臣や大野埼玉県知事は、「自粛要請が聞き入れられなくて残念だ」などとの反応を示し、国民の間からも、強行開催を非難する声が上がった。
ここに、ひとつ目に示した論点が見られる。
つまり、「いまは自粛しようね」というコンセプトのもとで、「自由からの逃走」で示されたような政府と市民の一体化が見られるのである。
強制力のある法律を媒介にすることなしに、国家と市民が一致団結しているのだ。
もちろんこれは合理的な必要性にもとづくものであり、これが徹底されて感染拡大が抑えられたのは、喜ぶべきことだろう。
だが、ナチスドイツを支持したドイツ国民にも、社会状況を背景とした合理性があったことは、忘れてはならない。
なぜ人々が自粛要請に従っているのかを考えると、ふたつ目の論点が見えてくる。
外出して感染してしまうという可能性を恐れて自粛しているという側面や、自粛することで不都合があっても、最終的に流行がおさまるメリットをみて、自粛しているという側面もあろう。この点に関しては、個人は自律していて、何も問題はない。
だが、非常に不便な外出自粛が、これだけ多くの人々の間で行われている要因は、それだけではない。
そこにはおそらく、”匿名の監視者”からの視線を気にする心理が働いているはずだ。
分かりやすく言えば、こんな時に外出していたら、誰かに非難されるのではないか、こんなときにイベントに行ったら、誰かにTwiterで晒されるのではないか、そのような心理から、自身の行動を制限しているということである。
これはいわゆるフーコーの言う、個人の心の中に機能する権力が働いているといえる。
そして、政府は自粛を要請することによって、この心の中の権力を通じて、市民を統制しているのである。
こういった形の市民統制は、形式上は市民の自発性に基づくものであるから、法的な拘束力はない。
だが裏を返すと、民主主義にもとづく今日の政治体制に記載のないシステムであるということである。つまり、一度機能しだすと、歯止めをかける仕組みもまた、存在しないのである。
そのシステムは、幸か不幸か非常によく機能して、現在日本の感染拡大は抑えられつつある。
だがそれは同時に、「1984年」の世界へとたどり着きうる道でもあることを、忘れてはならない。
歴史は終わらない
ジョージ・オーウェルの「1984年」は、東西冷戦のさなか、共産主義陣営の全体主義化を批判した作品だった。
その冷戦もやがて終結し、それを受けて歴史学者フランシス・フクヤマは、自由民主主義が完成し、人類発展の過程としての歴史は終わりを迎えると言った。
歴史が終わり、「1984年」の世界も、「あり得たかもしれない未来」として、リアリティを失ったかに見えた。
だが、2001年の同時多発テロに始まり、リーマンショック、欧州におけるテロの頻発など、世界は新たな局面を迎えた。
そして、新型コロナウイルスの流行を巡って、私たちは、いまだ経験したことのない社会の変動を目の当たりにしている。
「1984年」の世界は再びよみがえり、先を見通すことのできない分かれ道を、私たちに提示している。