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ニンジャの話 その18 認知症

古民家改修プロジェクトを始めてから徐々に父は健康をとり戻しました。喘息で一年に何度も緊急入院していたのが嘘のようです。購入してから一度も入院することがありませんでした。おかげで家族は父を失うことも金銭的に困窮することもなく、2人の息子は無事に巣立ち、新たな生活を持つこともできました。私の母は常々、「里の館が私たちを助けてくれた」と息子たちに話します。病気の夫と2人の息子を抱え、不安だったのでしょう。思えば両親が古民家を購入した時、母はまだ29歳。四国徳島から出てきて親戚もいない地で精一杯頑張っていたのでした。

健康を取り戻した父は彼の強みであったのコミュニケーション力、行動力、発想力を発揮します。研究、授業、講演など精力的に仕事に打ち込みます。休みになると古民家の改修です。今思えばほとんど休みなく何かをしていたように思います。その甲斐あってか父は39歳、大学史上最年少で教授になりました。古民家を購入して4年後のことでした。

父が大学に就職した時の教員の定年は72歳でした(現在は70歳とのこと)。39歳で教授になった父はこの後33年間勤務することができます。なんと有難いこと!大学内外で順調にキャリアを積み上げ父はさまざまな活躍をします。長期間活躍した教員は退任後に名誉教授になれます。父の安泰は保証されていたようなものでした。しかし「好時魔多し」とはよく言ったものです。私たちが考えてもいなかった病魔が父を少しづつ、少しづつ蝕んでいました。

父の定年退職が近づきつつあった頃、学校から連絡が来るようになりました。「父が授業に来ていない」「父が同じ講義をしている」。

父は父の弟(私の叔父)から、「お前は人生の半分は探し物をしているな」と言われるほど忘れっぽくて、鍵や財布、時計などをいつも探していました。忘れっぽいのは昔からだったので一緒に住んでいる私たちは父の忘れ癖になれていて当初は「あー、またか、お父さん忘れっぽい!」と気にしていませんでした。しかし今回はちょっと違うようです。特に明らかだったのは父が大好きだったゴルフに全く行かなくなったことでした。認知症の初期症状に趣味が変わる、好きだったことをやめてしまうというのがあります。父の母(私の祖母)が後年認知症になったこともあり、認知症外来を受診してみようということになりました。もちろん父は自分が認知症な訳ないと行きたがらないので時間をかけてなだめすかして病院に検査に行きました。

検査の結果、父は初期のアルツハイマー病の疑いがあるとされました。私は母からの電話で知ることとなりました。何か他人事のように思えました。ショックだったのだと思います。海外に住む私はショック受けるだけですが、父と一緒に暮らす母にとっては生活という現実が襲ってきます。診断後母は父の秘書となって父の業務が滞らないように献身的にサポートしました。

母はとても強く、へこたれない人です。人生を前向きに生きる人です。喘息で入退院を繰り返し一時は命が危ないと言われた時も2人の子供を抱えて生きていくことを決心したと話していました。その頃まだ20代半ばです。古民家改修プロジェクトでは頭に手ぬぐいをまいてネコを担ぎ土木作業に明け暮れました。まだ30歳にもなっていませんでした。ようやく父が健康をとり戻し充実した仕事を始めた頃、2人の学費の足しにしようと学習塾を始めました。30代でした。里の館の役に立つだろうと調理師免許を取得したりと父や家族を助けるため地道にコツコツと動いていました。

ようやく父の体調も落ち着き、経済的にも不安がなくなり、これから人生を楽しめるステージに登ろうという頃、母はまた父をサポートしなければならない状況になりました。

認知症は辛い病気です。進行を遅らせることはできても回復はしません。そして患者も辛いですが、周りの人を巻き込み、周りの人たちも辛い時間を気共有します。誰が悪いわけではないのに喧嘩や諦念など感情に揺さぶりをかけてくる疾患です。そしてこれは父が亡くなるまで続くのです。

大学内外での仕事を極力減らし、認知症の治療を受けながらせめて定年退職までは勤め上げられるようにしよう。父の晩節を汚さないようにしよう。母は献身的な努力します。母がいなければ父はおそらく早期退職を余儀なくされていたでしょう。まさに子供に付きそうかのように母は父をサポートしていました。

実は古民家にモノが積み上がっていたのはパーフェクトストームのためだけではありません。忘れっぽくなった父がなんでも買い始めてしまったのと、父のサポートに時間を取られる母の手がだんだん追いつかなくなってきたということがあったのです。

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