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[「首」解説・感想] 光秀の扱い雑じゃない?

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1. はじめに

こんにちは。先日、友人に勧められ、Netflixにて配信された北野武監督「首」を拝見しました。好きか嫌いかで言えば間違いなく好きな作品ですし、非常に面白く鑑賞できたのですが、一つの映画としての出来栄えで言えば、タイトルにもある様に、少々中途半端に感じました。本稿では、まず戦国時代好きとしての感想、その後に1人の一般観客として鑑賞した評価を述べようと思います。ネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意下さい。

2. 歴史好きとして見た感想

1. 女郎に棒が付いてるだけ

本作のテーマの一つでもある男色、それにまつわるギャグシーンの一つとして、秀吉の陣中にて、女郎小屋に入った男が「うわあ!男だ!インチキだ!」とビックリして飛び出し、後から女郎に扮した男が「うるせえ!女郎に一本棒が付いてるだけだろ!」と怒って追いかけ、それを見た秀吉が笑っている、というシーンがあります。

一見何の変哲もないギャグシーンですが、歴史的には奥深い味わい方があります。女に扮した男が女郎として客の相手をする、いわゆる男娼は、客側はそれと知らずに行為に及ぶ場合とそうでない場合があった様ですが、前者においては、途中で男と気付いても、そのままケツに挿入した場合もよくあったようです。

喜多川歌麿による男娼の春画
黒塗りは自主規制

熟練の男娼ともなれば、最後まで男と気付かれずに行為を完了させたという逸話もありますが、方法としては、手の平で筒を作り、そこに潤滑油などを塗り、後は手練「手管」で女性器を再現していたそうです(恐らくは相手の上に乗り、服などで下半身を隠したまま行為に及んでいたと推察)。

上記は、歌舞伎の影響などにもよって男娼が全盛時代を迎えた江戸時代の話ですが、記録がないとは言え、女だと思い込ませたまま相手を満足させることのできたプロの男娼はそれ以前からも存在していたとする方が自然でしょう。

既に公家・武家・僧侶の間では全盛期を迎えていた男色ですが、秀吉は百姓の出のこともあり、男色は好まなかったと言います。

劇中に登場した男娼がその様なプロの技を持った男娼なのであれば、彼の「棒が付いてるだけだろ」という怒りは当然なのですが、秀吉は自分と同じ様に女しか好まない足軽に対して、自身も足軽からのしあがったこともあり、シンパシーを感じたために、その慌てっぷりに笑ったのかもしれません。

2. 荒木村重の逆恨みっぷり

ORICON NEWS キャラクターPVより
信長の「お役に立ちたい」荒木村重

劇中での荒木村重の言動には創作としての脚色が多く加えられていると言って良いでしょう。劇中にて、彼が信長を裏切った理由を光秀に説明する場面として「身も心も捧げた褒美が摂津一国だぞ。あんな奴に付いていけるか!」と嘆いている描写があります。

しかし、一国とはいえ、摂津国は石高的に決して貧しい土地ではありませんし、石高だけではなく、商業都市としての経済力や戦略的要所としての価値を考えれば、史実的にはかなりの待遇が与えられていたと考えられます。

摂津国には、江戸時代には天下の台所として名を馳せ、現在でも三大都市圏に数えられる大阪市を中心とし、中世の商業都市として名高い堺市や古来より港湾都市として栄えた神戸市などが含まれます。

もちろん、現在の様な形で税を徴収できたわけではありませんので、商業が発展しているからといって、必ずしも直接的な利益が得られたわけではありません。

しかし、この地の出身であり、千利休の弟子として茶人としての側面も持っていた村重であれば、商人とのネットワークを活かし、交易などにおいて多大な便益を得ることができた、或いは得ることを期待されていたのでしょう。

また、村重が摂津を任せられた当時は、石山本願寺や紀州の雑賀衆、播磨方面の諸勢力など、あらゆる方面に敵を抱えており、その様な要所を任せる信長の村重への厚い信頼と期待が伺えます。少なくとも、摂津一国を任せれたことに対して憤慨している劇中の描写はお門違いと言えるでしょう。

ORICON NEWS キャラクターPVより
信長を裏切り籠城する村重

村重が信長を裏切った理由については、光秀の本能寺の変での裏切り同様、諸説はありますがハッキリとしていません。劇中にもあるように、中国地方の毛利攻めを任せられなかった不満も裏切りの一因となった、とする説も聞いたことはあります。

史実では村重は毛利攻めを任された秀吉の指揮下に入りますが、いくら室町幕府滅亡において功績を上げたとはいえ、織田家に仕えてたかだか数年の村重と、既に二十年以上も織田家に仕え、各地で多くの功績を上げてきた秀吉と、どちらに指揮権が与えられるかといえば、これは当然の処置といえます。

ここからは歴史的資料による裏付けのない単なる憶測となりますが、村重に期待されていたのは秀吉の毛利攻略の初期段階におけるサポートであり、信長はその後に畿内や四国の敵対勢力の攻略を任せるつもりだったのではないでしょうか。

毛利家の勢力圏である中国地方に侵攻していくには摂津という国は少々離れすぎていますので、村重が総司令官として毛利攻略が進行していけば、いずれ村重の故郷でもあり、大きな経済的利益を得ることもできる摂津国から本拠地を西に移さざるを得なくなったでしょうが、これは村重の望むところではなかったはずです。

村重は信長の播磨攻略にも参加した経歴がありますので、播磨という見知らぬ土地に近江より移ってきた秀吉を土地勘や後方支援でサポートし、秀吉の播磨における基盤が確立し、中国方面への侵攻がある程度進めば、再び畿内の敵勢力の攻略、或いは四国方面の司令官を任せられた可能性はあります。

これを踏まえると、毛利攻めの司令官を任せられなかったのが不満で信長を裏切ったというのは、少々説得力に欠けるのではないでしょうか。

また、劇中中盤の光秀と村重が乳繰り合う場面の直前の会話で村重が、信長にずっと我慢して仕えてきた「あげくが、一族郎党皆殺しだよ」と憤慨するシーンがあります。

しかし、史実としては、裏切った後に籠城した村重に対し「降伏すれば妻子の命は助ける」という条件で降伏勧告がされていたものの、村重は妻子達を見捨てる形でこれを拒否、その結果として妻子が斬首されたのですから、これも信長を恨むのは少々お門違いといえます。

3. 切腹は武士の嗜み

「首」X公式アカウントより
黒田官兵衛、安国寺恵瓊と三者で和睦会談に臨む清水宗治

本能寺の変が起きた後、秀吉は光秀を討つため、毛利家と和睦して急いで京都へ引き返そうとしますが、その和睦の条件として、毛利方の城主であった清水宗治の命を要求し、宗治は城兵の命は助けることを条件にその要求を飲みます。

ちなみに、劇中では毛利方の外交僧である安国寺恵瓊の謀りによって清水宗治を切腹へ誘導した様に描かれていますが、これは恵瓊が毛利家中にあって親秀吉であった史実を反映させた描写でしょう。

その後に宗治は湖に小舟を浮かべ、死に装束で能を舞い、辞世の句を詠み、仰々しく腹を切ろうとする場面がありますが、その様子を望遠鏡で眺めながら、「なんだよ、あれ!」「さっさと◯ねよ」とイラついている秀吉が、側にいた黒田官兵衛に「まぁまぁ、武士の最後というものは…」と窘められるギャグシーンがあります。

武士の死の作法は切腹、海外にも「Harakiri」として伝わるほどに有名なイメージですが、実はこの時代にその様な価値観はなく、清水宗治のあまりにも立派な切腹の様子が江戸時代に語り草となり、武士の間で死の作法として定着していったものだとされています。

これ以前は、武士として潔く死すべし、という様な価値観自体はあったようですが、必ずしもそれは切腹とは限らず、自決であれば、手段は様々だったようです。

百姓出身故にその様な価値観すらも持ち合わせず、光秀を討つため一刻も早く京都に戻りたい秀吉としては、宗治がいきなりやたらと仰々しく腹を切ろうとするものですから、「なんだよ、あれ!」とイラついた反応を示すのは至極自然であり、むしろその様子をさも武士の当然の作法であるように見ている勘兵衛の方が時代考証的には不自然かもしれないワンシーンだと言えるのです。

3. 一個人として鑑賞した評価

1. 時代劇からの観点

初見後の感想として、自分の中ではこの映画の評価に主に3つの観点が成り立ちました。その1つ目、時代劇としての時代考証的な観点で評価すれば、この映画はエンタメ的作品と言わざるを得ないでしょう。

あくまで個人の意見ですが、時代劇の時代劇としての評価は、どれでけ歴史描写に嘘が少ないか、ということに尽きます。もちろん、それ以外にストーリーとしての評価、撮影技術の評価、俳優の評価など様々な評価が合わさって一つの作品の評価が出来上がるわけですが、時代劇としての価値のみで考えると、上記の評価基準が適当であるように思います。

しかし、物語である以上、どうしても嘘を付いても良い、或いは作者の史観として自由に解釈して良い箇所は存在します。これもあくまで個人の意見ですが、歴史上の人物の性格に関するもの、これは資料にいかなる記述があろうとも、究極的には筆者の主観的感想にしか過ぎないため、物語の作家が変更しても良い場所であり、そうでなければ物語は始まりませんし、ただのドキュメンタリーとなってしまいます。

別ジャンルで例えると、SFであれば、どれだけ科学理論に沿った描写がなされているか、というものがSFとしての評価基準に当たります。例えば、タイムマシンを題材にするのであれば、時間旅行自体は科学的に不可能である、というものを無視しなければ物語が何も始まりませんので嘘をついても良いとして、それ以外でどれだけ科学的か、つまりタイムマシンの動力源や操縦方法などにおいてどれだけ既存の科学理論に沿った描写がされているか、というものが評価基準となるわけです。

話を「首」に戻しますと、一種のリアリティを売りにしている割には、時代劇としては、作品の節々においてリアリティの追求というよりは、一般に定着している戦国時代のイメージを優先させている描写が存在します(もちろん、北野武自身は時代劇としてというよりかは、人間の本性などにおいてリアリティを追求したのでしょうが)。

例えば、服部半蔵は忍者ではありませんし、戦国時代の足軽の槍は平均四メートルで「突く」のではなく「叩いて」戦っていたとされています。また、家康は信長より十歳ほど歳下なのにやたらジジイであることなども挙げられるでしょう。

服部半蔵が忍者である、というイメージは江戸時代の作り話や「忍者ハットリくん」などの創作物が大きく影響していると思われますが、「首」のストーリー上、半蔵が忍者でなくとも物語は成立するにも関わらず、半蔵を忍者として描写していることは、少なくとも時代劇の時代考証的な観点ではポイントを下げます。

槍の長さにしても、実際の長さと言われている四メートルの槍を使った戦いを再現するよりも、もっと短い槍や刀などで戦わせたほうが合戦シーンの迫力が出ますし、家康も、実年齢を再現するよりも、一般に持たれている「狸ジジイ」というイメージを優先させた方が、観客はストレスなく作品を楽しめるというものですが、これらはストーリー上重要な要素ではありません。

ORICON NEWS キャラクターPVより
イメージとして物語上必要なのは「タヌキ」の部分であって「ジジイ」ではない

上記の様に、物語上、嘘をついても良い場所以外で嘘が多く、それらのほとんどが観客が持つ戦国時代のイメージなどを優先させた結果としての嘘ですので、手法としてはエンタメ的なものであり、時代考証的な観点からはあまり評価できません。

ちなみに、重要人物の一人である秀吉は北野武自身が演じていることもあって相当にジジイですが、これは監督が描きたい秀吉像が自身の演技によってでしか表現できない、と判断したためでしょうので、私は時代劇としてついても良い嘘に含まれると解釈しました。

また、実際には信長は秀吉のことをサルではなくハゲネズミと呼んでいましたが、信長と秀吉の関係性は物語上、非常に重要な要素ですので、観客に余計な誤解を与えないためにも、これはついても良い嘘だと解釈します。

総体として、少なくとも時代劇としての観点からは、「首」は主役が史実か非史実かの違いだけで、「るろうに剣心」などのエンタメ作品とさほど変わらないものだと思います。もちろん、エンタメはエンタメで評価すれば良いのですが、時代考証などを含めた時代劇としては、価値の高い作品とは言えません。

2. LGBTQ的なテーマからの観点

作品の一つのテーマでもあった、日本の「男色」というLGBTQに関連したテーマから評価するのであれば、「惜しい、勿体ない。」というのが率直な感想です。

これまで誰も映像作品として描いてこなかったテーマに踏み込むという目的で、戦国時代における武家文化に欠かせない男色を描ききったことは、しかもそれが世界に名だたる北野武によって成されたということは、非常に意義のあったことだと思います。

しかし、「1. 女郎に棒が付いてるだけ」でも触れましたが、如何に男色が庶民の間でも大流行したのが江戸時代からで、それ以前の記録はないとはいえ、昔から身分に関係なく、男色が自然と受け入れられる文化が日本にはあったと考える方が歴史解釈としては自然です。

「棒が付いてるだけ」の件は、一見何気ないギャグシーンですが、男色がさも武家の間だけの文化であったかの様な印象を視聴者に与えかねず、更に物語上重要なシーンでもないため、現代人の感覚から笑いを誘っていること含め、ハッキリ言ってただの蛇足、或いは勉強不足だったというほかにないでしょう。

北野武ほどの監督が世界でLGBTQ関連のテーマが非常に注目されやすいこと、また自身の作品も(映画界において)世界的に注目を集めやすいことを知らないはずはありませんので、如何に本人がそれを主なテーマとしていなかったとしても、上記のシーンは、ギャグとしての面白さは別として、全く評価できません。カンヌ国際映画祭で上映される様な作品ですので、尚更勿体ないことをしたと思います。

3. 一つの映画としての観点

最後に、特定のテーマなどを抜きにした一つの映画としての評価ですが、俳優達の怪演っぷりは非常に楽しめたとして、それ以外が少々中途半端に終わっていると感じました。

個人的に気になったのは、光秀の扱いです。作品全体を通して、スポットの当たる重要人物には全て、キャラとして人間の汚い・醜い部分を持たせられ、また感情移入させないように作られていると感じましたが、光秀の扱いが、あれだけスポットの当たる人物にも関わらず、少し雑だと思います。

ORICON NEWS キャラクターPVより
心の奥底に裏切り者としての野心を持つ光秀

序盤から中盤にかけて、光秀は一見すると戦国の狂人に囲まれた中で良識を弁えるマトモなキャラですが、俳優の細かい演技を注視すると、しっかりと最初から野心を持っていることが表現されており、良識を弁えるのも、あくまで処世術の一環としてであることが読み取れます。この辺りは映画として評価できるポイントでしょう。

光秀がその野心をハッキリと露わにするのは、本能寺襲撃に陣立つ場面で、恋仲であった村重を「俺たち侍の契りなんかより、天下というものはずっと重いものなんだ」と言い、しっかりとは描写されていませんが、恐らくは籠に閉じ込めて河に突き落とすシーンです。

確かに、これまでの村重と乳繰り合っている描写などを思い返しても、夢中になっているのは村重だけで、光秀役の俳優はあまり感情を表に出さない演技をしています。このことからも光秀の設定は、感情を表に出さず、虎視眈々と自分の野心を達成できる機会を狙う、他の人物と同じく人間の汚い・醜い部分を持たせられたキャラだといえます。

しかし、問題はこれ以降の場面です。本能寺にて信長を襲撃するも、火事場のドサクサにて首を発見することができず、部下に「首は見つかったか?信長の印がなければ武士の本分が立たん!」と怒鳴るシーンがあります。

劇中中盤で光秀が「私は武人として、忠義を重んじて生きたいと思っております。」と言っている様に「武士の本分」とは忠義を尽くすこと、裏切った時点で忠義も糞もありませんので、このシーンはせっかく自分の野心に従って裏切りを実行したというのに、早速ちょっとした躓きがあり、それに焦って論理破綻を起こすという小物感を演出するためのセリフだと解釈しますが、暗くて表情なども見えないため、観客にその心境の変化が的確に伝わるのかは怪しいところです(少なくとも自分は一回目では分かりませんでした)。

その後、地面に落ちている灰をしゃがみながら掴み、「首はどこだ」と呟くシーンを挟み、しばらくの間、彼の出番はなくなります。この灰を掴みながら呟くシーンは自分のしたことに自信が持てなくなって今後について逡巡し始める描写であり、その後、合戦シーンなどでチラチラ登場こそすれどセリフを一切吐かないのも、既に軍を積極的に指揮する覇気を失ってしまったという表現でしょう。

ORICON NEWS キャラクターPVより
山崎の戦いにおいて、秀吉のセリフはあるが光秀のセリフは一切ない

そして、山崎の戦いで秀吉に惨敗し、敗走する中を秀吉軍に執拗に追撃されますが、ここでも光秀は画面にチラッと映るだけで、大した描写はありません。そして最後に難波茂助が木の根本に座り込んでいるボロボロになった光秀を発見します。

ここになって光秀がようやく口を開きます。「下郎!俺の首が欲しいか!」「欲しけりゃくれてやる。」笑顔でそう言うと、笑顔のまま自ら自分の首を刀で切り落とします。

ここで、一つ解説をしておきましょう。映画全体を通して、非常にテンポよく首が切り落とされていくわけですが、実はこの首の切られ方には、そのキャラの性格がそのまま反映される、という法則性があります。

ORICON NEWS キャラクターPVより
イっちゃってる信長

例えば、信長は脈絡のない狂人の極みとして描かれ、恐らく本人も何をしているのか、何が起きているのか分かっていないくらい、ただただ狂った人物なのですが、そのキャラ通り、急に弥助に首を切られ、何が起こったのか分からずに死にます(恐らく、なぜ光秀が裏切ったのかも分かっていません)。

茂助は、出世のためなら友人も騙し討ちする様な卑怯な小心者というキャラですが、最後は不意打ちで多数から刺されるという卑怯な方法で落ち武者狩りに殺され、その中に幻影として自分が裏切った友人の顔を見るという、自分がしでかしたことをいつまでもクヨクヨしている小心者っぷりが反映された死に様を晒し、首をはねられます。

宗治は、恵瓊の演技によって誘導され、城兵の命のために切腹するようなお人好しとして劇中で描かれています。介錯人によって彼の首が切り落とされた際、首が湖に落ちるというマヌケな描写となりつつも、宗治を慕う部下がその首を拾い上げようとすぐに湖に飛び込むというシーンには、他のキャラと同じ様に彼のキャラとしての設定がしっかり反映されていると言えるでしょう。

光秀の場合はどうでしょうか。そのキャラの性格が死に際にそのまま反映される、という法則が正しいならば、彼のキャラとしては、真っ当な人物を演じながらも、本心としては狂気に一種の憧れを抱いた野心家であり、しかし自分はその狂気にはなりきれない、というものを設定として持たせられていると、演繹的に推論できます。

敵の手に掛かるくらいならば潔く自ら死を選ぶというのは真っ当な武士の価値観を持った人物をこれまで演じてきていたことを表すものですが、その方法は自ら首を切り落とすという狂ったやり方です。

ここで注目したいのが、光秀役の俳優の演技が表情やセリフ含め、急にお芝居がかることです。ハッキリ言って映画全体の作風から少し浮いてるのですが、これは光秀が、決して狂気にはなりきれないものの、死を間際にして、憧れていた狂気を自分も演じてみよう、となった心境の描写だと考えられます。

その後も注意して見ると、光秀は自分で首を切り落とそうとするものの、刀は途中までしか刺さらず、近寄ってきた茂助が一生懸命首を切るという描写になっています。

ORICON NEWS キャラクターPVより
光秀の首を切り落とした茂助

結局は自分で自分の首を切り落とすことができなかった、というシーンは光秀の狂気に憧れ、自身で狂気を演じつつも、狂気になりきれなかったことの暗示と解釈できるでしょう。

最終的に首を切ったのが、侍大将になりたいという野心を持ちつつも小心者である茂助だという点も、光秀の本能寺の変を起こした理由は、決して狂気ではなく、ただの野心であり、その後にすぐに自分の行動に迷いを覚え始める小心者っぷりを暗示するものだといえます。

また、山崎の戦いで碌に指揮も取らないほど弱気になっているにも関わらず、一介の下郎に対しては上から目線で強気に出ている所も、同じく小心者っぷりの演出と言えるでしょう。

他の点で光秀のキャラを説明してみると、織田家が隆盛を誇り、これから天下統一に向けて大きく前進していく時に、その当主を裏切って討つ、というのは、事実だけを見ると狂気に見えますが、劇中においては「今、自由に軍を動かして信長を討てるのは光秀だけ」「裏切った後、秀吉は味方になる」などの村重の説得によって決起した描写がされており、信長の様な脈絡のない純粋な狂気と違い、合理的・打算的な動機が多く含まれている、といえます。

その後も、恋仲でもあり共に陰謀を練ってきた村重を急に切り離すという、事実だけを見ると狂気に見える行動も、光秀の腹心である斎藤利三(劇中においては、利三は自分の意思を持たず、光秀が自分ではできないことを代わりに行う代行者という意味を持たされています)から「殿はな、口先三寸の貴様を側に置くようなマヌケじゃないんだ」という発言があり、同じく、合理的・打算的な理由で動いていることが描写されています。

尚、「口先三寸」が意味するところは、信長に惚れつつ、その裏で光秀とも恋仲であったこと、史実において妻子が皆殺しにされたのは自分のせいであるのに信長を逆恨みしていることなどの点にあると思われます。

ポイントとしては、事実だけを一見すると、本能寺の変も村重との決別も脈絡の無い狂気に思えますが、そこに合理的・打算的な動機があることが描写されていることです。

光秀は狂気に憧れつつも、狂気になりきれない、という命題が真ならば、これらの一見すると狂気に見える行動は本人のうちに秘めた狂気への憧れが表れたものだと言うこともできるでしょう(論理学的には正しい推論方法ではありませんが)。

また、信長の息子に宛てた密書を手に入れた秀吉がそれを光秀に見せる場面において、信長が手柄のあった家臣に家督を譲ると言っておきながら、本心は息子に家督を譲る気であったのを知って「この世の者ではない魔王と信じて仕えてきましたが、家督を我が子になど…。結局は人の子だったということか!今までの私は殴られ損だ!」と激昂するシーンがあります。

ORICON NEWS キャラクターPVより
激昂する光秀に同情する(演技をする)秀吉

信長自身は脈絡の無い狂気で行動している人物ですので、果たして本意がどちらであったのかは定かではありませんが、少なくとも光秀が信長に対して自分の持つ狂気の理想像を投射していたことは確かでしょう。これも光秀が密かに狂気に憧れていた、と解釈することができます。

ここまで説明すれば、光秀においても一環した設定が組み込まれているのが分かって頂けたかと思いますが、ハッキリ言って、観客には伝わり辛い気がします。

これだけストーリー上でスポットの当てられた人物にも関わらず、特に本能寺の変後において心境の描写が少なすぎますので、首を切られる段になって急にやたら演技臭く潔いセリフを言ったりするシーンが浮きすぎてる様に感じたのは私だけではないでしょう。設定自体は良かったものの、演出方法においてあと一歩、という印象は否めません。

この様な、演出の意図が観客に伝わらず、シーンが映画全体の作風から浮いてしまっているという描写は他にもあります。その最たる例はやたら安っぽく見えるアクションシーンや合成映像でしょう。

序盤において、荒木一族が河原で斬首されるシーン、長篠の戦いにおいて、至近距離で鉄砲が放たれたにも関わらず、兵士だけが落馬して馬が平然としているシーン(少なくとも驚くくらいはするはずであり、黒澤明の「影武者」などと比べても相当安っぽく見えます。)、極めつけは、本能寺の変後に三河へ逃れる家康に付き従う服部半蔵とそれを追いかける斎藤利三のクソダサチャンバラワイヤーアクションシーンです。

予告映像より
クソダサチャンバラをワイヤーアクションで繰り広げる利光と半蔵

いわゆる北野ブルーなど、画面の雰囲気に非常にこだわった作りがされた映画において、安っぽさを隠そうともしないこれらのシーンの演出意図としては、観客を一歩引いた視点に戻し、客観的な視点で登場人物達の人間的な汚い・醜い部分を見て欲しいというものなのでしょうが、ハッキリ言って、シーンのダサさのインパクトが強すぎて、映像として浮いています。

見てる側としては、ギャグシーンとして見れば良いのか、真面目なシーンとして見れば良いのか、判別が付きにくく、また人間的な汚い・醜い部分も、ストーリーの最重要人物の一人である光秀の描写が少々雑であることから、それを客観的に見れば良いのか、主観的に見れば良いのか、よく分からない、といった具合です。

また、首の切られ方に一定の法則性(統一性)がある点も、それが「この映画の人物達は皆それぞれのキャラが反映された、因果応報的な首の切られ方をしますよ、あなたのその解釈はそれで合っていますよ」という文脈で使われているのならば良いのですが、

少なくとも観客としては、その法則性ありきで「光秀はこういう死に方をしたからこういうキャラだったんですよ」という順番が逆になった受け取り方しかできないのは、脚本・演出の不完全さ、或いは怠惰を示すものとしても良いでしょう。

4. おわりに

全体としては非常に面白い作品であったと思いますし、特に俳優陣の怪演っぷりは素晴らしかったの一言に尽きるでしょう。しかし、節々においては脚本や演出の粗さが目立ちますし、逆に言えば、俳優達の演技の凄さだけが先行し「なにかよく分からないけど凄い」(人によっては「男色なども描いていて凄い」)といった中途半端な印象を与えてしまうのではないでしょうか。

少なくとも、時代考証的なリアリティやLGBTQ的なテーマを持った作品としては、あまり高く評価できず、一つの映画としての出来栄えは、論理破綻を起こしていても雰囲気で乗り切ってしまう日本映画としては十分ですが、北野武が明確に伝えたいもの、描きたいものがあるにも関わらず、それが脚本や演出の粗さによって脚を引っ張られているのはもったいないことです(尚、脚本・監督ともに北野武が行っています)。

駄作とは決して言いませんし、間違いなく好きな作品の一つなのですが、傑作と呼ぶには少々中途半端な出来栄えになってしまった、というのが正直な感想です。しかし、一見の価値自体はあると思いますので、ご覧になったことの無い方は、是非NetflixやU-NEXTなどでご覧ください。

ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

2024/07/22 一部加筆

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