「あきらめかた」が分からない

今日はジムに行って全身くまなく鍛えてきた。

ベンチプレス、スクワット、デッドリフトと定番のメニューにマシントレーニング、最近流行りの筋トレをテーマにしたアニメを流しながらランニングマシンで40分走り込み。最後に自重トレーニングとストレッチをして、スパで汗を流し、併設されているスポーツ店で買ったプロテインを飲んで〆。

傷病手当金が出なくてお金が危ない割に随分贅沢なことをしているのだが、実際のところ、このようなことしかできないのが、現状だ。

双極性障害という問題に対し、筋トレという修行を積むことで乗り越えられないかという考えに、無意識のうちになっている。

うつ病だったり、あるいは私のような双極性障害の当事者にも当てはまると思うけれども、そうした人の「あきらめの悪さ」が症状を良くない方向に持っていっているというのは、noteで何度か引用している元自衛隊の心理カウンセラー下園壮太氏が指摘されている。

氏のいくつかの本で繰り返し述べられているが、そのものズバリのタイトルがあるのでAmazonのリンクを貼っておく。

https://www.amazon.co.jp/dp/B00I9527RC/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

この本の「はじめに」に次のような文章がある。

「しがみつく」人は、環境の変化に気づきながら、自分を変える勇気を持てず決心が遅れてじり貧に陥る。そして切羽詰まってから行動するが、すでに事態は悪化しており、結果が伴わないことが多い。

読んだ瞬間、私のことだと感じた。


最初のうつの診断を受けたときに何も考えずに学生生活を過ごした自分。

休職の診断を受けても無為に過ごし、復職時も同じ生活を繰り返した自分。

双極性障害に診断名が変わったときに病気に対して何も調べなかった自分。

転職時に自分が出来うる業務なのか考えず、ただ金額面と企業イメージだけで決めた自分。


全てにおいて、「頑張ればなんとかなるのではないか」としか考えてこなかった。
それは未来を見据え、困難に立ち向かうだけの勇気と能力、ある程度の算段を持った上での勇気では無く、単なる幼稚な楽観論、自身の行く末に目を背けた阿呆の思い込みに過ぎなかった。

しかし、だ。
ではどうやって頑張りを止めればいいのか。

私は恥ずかしながら、追い詰められたときはいつもひたすらに頑張って、1ヶ月程度は耐えぬきある程度は結果を出すものの、そこで力尽きて失踪や休職を繰り返してきた。

自分には積み重ねた知識や経験、そしてそれらに裏打ちされた自信がどうしてもないから、定量化できない「あきらめの悪さ」しか誇示できるものがないのだ。あきらめを捨てようと考えたときにようやく気付いたことである。30代も半ばに達しようというのにどれだけ虚しい人生を送ってきたのだろう。そういえば周りの結構な人々から、自分があまりにも頑張る=あきらめが悪いので色々引かれた記憶がある。友人も、同棲していた恋人も、職場の同僚も、どうしてそんなに続けられるのか、あきらめず頑張るのかが理解できないという感じで、しばしば止められることもあった。

前の職場はまだ昔ながらの精神論が横行していたからまだマシだった。(それでも私はあまりに酷かったようで色々諦められていたようだ)
そうだ、思い出した。今の職場は利益重視で無為な頑張りは逆評価になりがちで、そういうところが斬新だ、そうあるべきだと感じながら最初は働いていたはずだ。頑張っても大きな成果や利益につながらないと分かれば即座に辞めて帰ってしまう、そういう一つ年上の上司に憧れを感じ、社内でその人がどれだけ疎まれようと結構カバーしていた気がする。

結局のところ自分自身、無為な頑張り、しがみつきから解放されたいと心の中で感じていたということだろうか。

上司はなんだかんだで最初は頼りにしてくれていたが、次第に勘所が鈍い私のことはあまり信用せず、自分だけで仕事をしていくようになったがそれでも私は周りの批判からカバーするように動いていた。正直とても苦痛で、それこそまさに「しがみつき」だったのだろう。皮肉というほかない。

ここまで書いてようやく思い出したが、転職したとき、私が考えていたのは「自分の頑張りが正しくお金になり、製品やサービスのクオリティに直結し、win-winになれる職場で働きたい」ということだった。

金になり、価値が目に見える努力をしたかった。前の職場は金銭的にも良くなく、パワハラも酷く、何よりかかった労力に対して出来上がった製品のクオリティがあまりにも低く、官公庁向けの、それも下請け、孫請レベルの仕事だったので、制限があまりにも大きく、ほとんど改善する余地が無かった。そういうところでいくら頑張っても自分も会社も顧客も、誰にとっても損でしか無いと感じていた。

そういう意味では今の職場は間違ってはいなかった。小規模なので甘いところはあるものの、社員一人ひとりが常に自分の利益を考え、会社の利益を考え、顧客への価値を担保できる選択をし、決して無理をせずやりすぎることがなかった。私が理想としていた職場環境だったはずだ。

最初、双極性障害と書くのが怖くて休職の診断書には「適応障害」と書いてもらっていた。もちろん双極性障害からくる適応障害でもあるので診断としては間違っていない。

だが、やはり双極性障害という前に適応障害だったのではないかと今では思う。

頑張り、しがみつきの無い職場を求めて転職したはずなのに、それらの無い自分がどのように立ち振る舞って仕事をすればいいか、分からない。

そして今、双極性障害を抱えながら仕事をしている人がみな、負担の少ない業務に就いていることにショックを受け、私自身も今のところにしがみつく以前に、別の仕事を探した方がいいんじゃないかと考えていたのだが、それこそ「転職して頑張ってなんとかする」というしがみつきなのではないかと考えてしまう。

僕は、頑張るのは好きだ。

自慢ではないが数少ない趣味の一つであるヨーヨーは最初のハイパーヨーヨーのブーム以来20年を越えて続けている。リアルの練習会にはほとんど参加せず、ネットの解説や練習動画を見ながら少しずつ練習して、先日10年越しの技が出来た。
高校時代「声はいいのに発声が悪い」と散々言われ裏声が出せなかったのを、ボイストレーニングに一年通い、YouTubeの動画を見て出せるようになった。
鉛筆を持つと極度の緊張で字が書けず、文章題の答えがわかっても答案用紙のマス目に字が書けなかったのも、工場で震えながらボールペンで字や図を書き続けているうちに耐性がついた。
絵が全く描けなかったのはデッサン教室に通い、スケッチを続け、模写を続けて線は引けるようになった。
大学の数学に全くついていけず留年したけど、高校の数学から勉強し直してなんとか卒業はできた。
そして大学の専攻とほとんど被らない就職先だったけど、本を買い、手を動かし、先輩の作業を盗み見て覚えていった。

正直、あきらめの悪さだけで生きてきたと言ってもいいと思う。

では何をあきらめれば、自分は楽に生きていけるのか。

分からない。分からなくてどうしようもない。悔しい。

正しい努力をしたい。無駄な労力をかけたくない。
続くことをしたい。頑張って力尽きて、を繰り返すのはもう辛いし、年齢も環境も許してくれない状況になりつつある。継続は何よりも大事だと、ようやく気付いてきた。続けばそれだけ力になる。経験になるし自信になる。何よりこれだけあきらめの悪い自分が何よりも知っている。

力尽きない頑張り方を誰か教えてくれ。

私は今変わりたくて、でも何も出来なくて、黙々と日常生活を続け、ダイエットと自分に言い聞かせてジムで身体を鍛え、絵の練習をし、家の片付けをしている。

初めに書いたように、自分を変える――入念に準備をして、修業を重ねて強くなれば力尽きないのではないか、と無意識に考えているのだ。

こういう志向は変えることはできないような気がする。それでも、何かをあきらめなければ、私は変われない。少なくとも幸せにはなれないのではないか。そう思えてならない。

そして何をあきらめればいいのか、今の私は分からないでいる。どうすれば「頑張り」を「しがみつき」に変えずに済むのだろうか……


もし誰かヒントでも知っていたら、教えて下さい。


以上です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
また次回も読んでいただければ嬉しいです。

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hiro
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