【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 12
斉明天皇の治世4(658)年1月13日、難波派の中心的人物であった巨勢徳太大がこの世を去った。
これにより、飛鳥派の勢いは益々増大していく。
宮内の不幸は続くもので、5月に入り、中大兄の息子、建皇子が僅か8歳でこの世を去る。
宝大王は、孫の建皇子を大変可愛がっていたので、その悲しみは甚だしいものであった。
建皇子を今城谷(いまきのたに)の殯宮に納めた時、彼女は群臣たちに、「萬歳千秋の後には、要(かなら)ず朕が陵に合葬(あわせはぶ)れ(私が死んだなら、必ず私の陵に合葬しなさい)」と述べ、建皇子を思って次の三首を詠んだ。
今城なる 小丘(おむれ)が上に
雲だにも 著くし立たば 何か嘆かむ
(今城の小丘の上に、せめて雲だけでもはっきりと立ったなら、
どうしてこんなにも嘆きましょうか)
(『日本書紀』斉明天皇四年五月条)
射ゆ鹿猪(しし)を 認(つな)ぐ川上の
若草の 若くありきと 吾が思はなくに
(射られた鹿猪の足跡を追うと、
その傍らに見る川辺の若草のように、
若かったとは、私は思っていなかったのに)
(『日本書紀』斉明天皇四年五月条)
飛鳥川 漲(みなぎ)らひつつ
行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
(飛鳥川が溢れるように流れて行く水のように、
絶え間なく思われてならない)
(『日本書紀』斉明天皇四年五月条)
その後、多くの群臣が、宝大王がこの詩を思い出しては、口遊み泣いているのを目撃している。