【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 5
数年後、中臣鎌子は、まだ智仙娘の屋敷で燻っていた。
宮内の神事は、病気のため職を退いた父の中臣御食子に変わり、御食子の弟の中臣國子と鎌子の異母兄の中臣鹽屋枚夫連(なかとみのしおやのひらふのむらじ)が後を継いでいた。
鎌子自身、祭祀職を継ぐつもりはなかったが、父が後継者に異母兄を選んだ時は、やはり少し寂しかった。
それ以来、母も鎌子に構わなくなった。
彼女の眼差しは、できの悪い鎌子より、これから伸びていくであろう弟たちに向けられていた。
そんな母の態度も、彼の心をより一層寂しいものにしていた。
そして、彼はその寂しさを紛らわそうと、屋敷を抜け出し、昼はあの男の下に通い、荷方の真似事をし、夜は盛り場に出入りするようになっていた。
あの男の名は魚主(うおぬし)と言い、蘇我倉家の荷方長であった。
「お前、家の方はええんか? こんなところに通いよったら、碌な人間にはならんぞ」
「迷惑ですか?」
「そんなこたあないが……、中臣の御曹司が、こんなところで荷方の真似事なんぞして」
「ここにいる方が楽なんです」
「楽ね……、俺らの仕事が楽か? まあ、一生遊んで暮らせるお前らにしたら、こんな仕事、遊びと同じやからな」
「あっ、べ、別に、仕事が楽とかという意味で言った訳ではなく、その……」
「ええ、気にするな。俺も冗談で言っただけや。そやけど、これで食ってるヤツが仰山おるんやで。それだけは覚えとき」
「はい」
鎌子は小さくなっていた。
確かに、自分は取り立てて仕事をしなくても生活に困らない。
しかし、この世には今日の生活に困る人々がいた。
それを、考えると自分はなんて浅はかなんだと思った。
「親方、次の荷物行きますよ」
船の上で、荷方が手を振った。
「鎌子、お前も手伝え」
魚主は、鎌子と荷方たちに指示を出した。
鎌子は船に上がり、荷物を肩で受け取った。その瞬間、彼はよろけそうになった。いままでも、何度か重い荷物を担いだが、こんなに重いのは初めてだった。
「鎌子、それは大事な物やから、気付けいよ」
魚主は、彼の屁っ放り腰に怒鳴った。
鎌子はその怒鳴り声を聞きながら、なんとか桟橋を渡り切ったのだが、結局、陸に揚げたところで力尽きてしまった。
中から、大量の木簡が出てきた。
鎌子の家にも木簡は数点あったが、これだけの数を一度に見るのは初めてだった。
「阿呆、何をしとんねん」
「これ、木簡じゃないですか?」
「そうや。これらは、旻(みん)様が講読されるためにわざわざ大陸から求められた大切なものなんやど。おい、壊れてないやろうな」
魚主は、散らばった木簡を一つ一つ丁寧に拾い上げ、土ぼこりを振るい落としては、箱に詰め込でいった。
「旻様て、誰ですか?」
「知らんのか? 大陸から帰られた偉い僧侶や。飛鳥の地で、大陸で得た知識を教えてはる」
「大陸で得た知識?」
「おう。なんや知らんけど、飛鳥の子弟の多くが旻様の講堂の門を叩くそうや」
「そうですか、大陸で得た知識ですか……」
彼は、小さい頃、遠い異国の地に憧れた日々のことを思い起こした。
「おい、ぼうっとしとらんで、お前も拾え」
遠くを見つめる目をしている鎌子に、魚主は言った。