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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 23
大王が空位のまま年が明けた中大兄の称制5(666)年1月、中大兄の心の傷も癒え、大殿に復帰した日、高句麗から前部能婁(ぜんほうのうる)が使者として派遣された。
この頃、半島北部では高句麗を長年支配していた泉蓋蘇文(せんがいそぶん)が亡くなり、その子供の男生(だんせい)・男建(だんけん)・男産(だんさん)の三兄弟が対立し合って、高句麗国内は混乱していた。
加えて、男生が唐に援助を求めたために唐からの攻撃も受けるという、将に内憂外患状態となってしまったのである。
このため、高句麗は我が国に救援を求めて来たのだ。
これを受けた中大兄は高句麗援軍の派遣を唱えたが、百済援軍に失敗している彼に賛同する者も少なく、高句麗には正式な返答をせずに使者を送り返した。
しかし、高句麗も背に腹は変えられない。
いまここで倭国に見捨てられては、百済と同じ道を歩むしかなくなる。
10月、再び高句麗の使者が倭国の大地を踏むが、中大兄の返答は冷たいものであった。
これにより高句麗は、一挙に崩壊の道へと転がっていくのである。
炎に照らされた卓の上で、男の人差し指が小刻みに踊る ―― それは、男の苛立ちを表す無意識の表現なのだが、聞いているこちらが苛立たしくなるものである。
額田姫王も、その一人であった。
「如何なされました、中大兄様? 随分、お苛立ちのようですが」
額田姫王は、中大兄の前に置かれた杯に酒を注ぐ。
その仕草は、中大兄とは反対にあまりにも優雅だ。
「分かるか?」
「一応、妻ですから」
「流石は額田だな、勘が良い。実は、群臣がなかなか言うことを聞かなくてね」
「そうですか、それはお困りですね」
「前までは、多くの臣下が私の言うことを聞いたものだが、最近ではそれも一握りだ。全く、やり辛くて叶わない。このまま大王になっても、私の思うとおりの政治ができないではないか!」
中大兄は、苛立たしそうに一気に酒を飲んだ。
「確かに、中大兄様のお気持ちも分かりますが、少しは臣下のお言葉に耳を貸されては如何ですか?」
「それで何になる! ヤツらが考えているのは、自分たちの生活のことだけだ。誰も、この国の行く末など考えてはおらん! 第一、臣下は大王や大兄の言われたとおりに動けば良いのだ。それを意見などと、おこがましい!」
「それは、そうですが……、ですが、群臣の中にも国のためを思って働いていらっしゃる方も大勢いますわ。それに、臣は王を助け、王は臣を慈しむ、これが我が国の伝統ですから。中大兄様も、もっと群臣の方々と話し合いを持たれた方が宜しいですわ」
「なんだ、お前まで私に意見するつもりか」
「いえ、めっそうもございません。私は、ただ心配なのです。中大兄様が宮内で孤立するのではないかと」
「煩い! 余計なお世話だ! 女が政に口を出すとは!」
中大兄は、拳を机に叩きつけた。
普通の女性なら、ここで恐れをなして引き下がるだろうが、相手は額田姫王である。
「お言葉ですが、先の大王様も、その前も、女性が大王でした。女が政に口を出すなと言うご意見は間違っていると思います」
「なに!」
中大兄は額田姫王の両腕を掴む ―― その力は凄まじい。
「痛い! 放してください!」
「煩い!」
中大兄は、そのまま額田姫王を寝台に押し倒し、胸元を肌蹴た。
「嫌です! 放して!」
それでも、中大兄の行動は止まらない。
彼は、強引に彼女の唇を奪おうとした。
額田姫王の左手が、中大兄の右頬に飛んだ。
彼は、その拍子に寝台から転がり落ちる。
「私、嫌です! こんな強引なの」
中大兄は項垂れている。
額田姫王は肩で息をしている。
しばらくして、男の足下に黒い染みができる………………また一つ………………
―― 泣いているの?
額田姫王は、中大兄の顔を覗き込んだ。
確かに、彼は泣いていた。
「中大兄様?」
男は、女の膝にしがみ付いた。
「お願いだ、額田、私を嫌いにならないでおくれ、お願いだよ! 母上も、間人も私を置いて逝ったしまった。宮内では、誰も相手にしてくれない。お前にまで嫌われたら、私は如何すれば良いのだよ……、額田、お願いだ、私を捨てないでおくれよ……」
男は、まるで子供のように泣き崩れた。
「中大兄様……」
ああ、この人も本当は寂しいのね………………額田姫王は、中大兄の頭を優しく抱いてやった………………まるで、母親が子供をあやすように。