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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 5

 蘇我入鹿が、豊浦の屋敷に近づく頃には、雲行きが怪しくなっていた。

 彼は、空を窺いながら門を潜った。

 玄関先に出迎えたのは、弟の蘇我敏傍であった。

「兄上、お帰りなさいませ」

「敏傍、いまからどちらへ? 雨が降りそうですよ」

「ええ、斑鳩の弓削(ゆげ)様の下へ。雨も、それまでもつでしょう。本日はあちらにご厄介になりますので」

「そうですか、今夜、中臣殿が久しぶりに訪ねて来るのですが」

「中臣殿と言うと、鎌子殿ですか?」

「そうです、葬礼の手伝いでこちらに戻っているそうですよ」

「そうなのですか、それは残念だな」

「まあ、葬り事が終わるまでこちらにいるということですので、そのうち、会う機会もあるでしょう」

「そうですね」

「それより、父上は?」

「部屋ですよ。もう、起きてますが」

「そうですか」

 入鹿はそう言うと、屋敷に入って行った。

 敏傍は、それを見送くると、表に出て行った。

 蘇我家の現当主は、蝦夷である。

 当時の人は、豊浦に住んでいたので、豊浦大臣、または毛人大臣と呼んだ。

 父は、敏達、用明、崇峻、推古天皇の4代に仕え、蘇我家の権勢を築いた蘇我馬子大臣であり、母は、物部守屋大連の妹である太媛である。

 本人の能力はどうあれ、蝦夷は、大臣家と大連家の血をひくという、大王家に仕える豪族の中でも一目置かれる存在であった。

 その子である入鹿は、鞍作(くらつくり)・林臣・蘇我大郎と呼ばれている。

 蝦夷の妻 ―― つまり入鹿の母親が蘇我氏一族である林氏の財産を受け継いだことから林臣とか、仏像造りに多く関わった鞍作氏から妻を娶っていたので、鞍作とも呼ばれていた。

 弟の敏傍は、人々から物部臣と呼ばれている。

 これは、祖母の財産を継ぎ、物部を基盤としたので、そう呼ばれるようになった。

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