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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 中編 5
中大兄の称制2(663)年9月25日早朝、倭軍の生き残りの将兵たちや百済の旧臣、民を乗せた船団は、朝霧に紛れ、倭国へと向けて出航した。
百済の旧臣や民は、遠ざかる山陰に涙を流し、再び戻れることを切に願いながら、故地との別れを惜しんだ。
倭軍の将兵たちは、大切な仲間を失った悲しみと、彼らを残して自分たちだけ古里を踏む心苦しさはあるものの、心底からはようやく帰れるという喜びに満ちていた。
その想いは、馬手たち斑鳩の家人たちも、黒万呂も同じであった。
出航の日取りが決まったとき、馬手たちは、
「これでようやく帰れる!」
と、もろ手を挙げて喜んだ。
黒万呂も同じである。
同時に、残りの日付を計算した。
「あと3日しかない」
数日で弟成を捜し出さなければならない。
黒万呂は、出航間際まで捜しまわった。
大伴氏の兵としての仕事もあったが、それ以外は寝食を忘れて捜し続けた。
だが、見つからない。
他の兵士からは、
「いい加減、諦めて仕事をしろ!」
と、怒鳴られた。
馬手も、
「ワシらも、宇志麻呂らのことは諦めた。あいつらには悪いが、いまはワシらが無事に古里に帰ることが大事や」
と、言った。
―― 薄情な!
黒万呂は憤った。
「仲間じゃないですか! 諦めたなんて、よくもそんなことを! 頭は、仲間を捨てるって言うんですか!」
馬手に食って掛かろうとする黒万呂を、弓削が止めた。
「止せ、黒万呂! 仲間を失って辛いのは、お前だけやない。ワシらだって辛いんや!」
「そんなん誰だって同じです。だからって弟成を……」
「お前は弟成だけかもしれん。けど、ワシらは3人も失ったんや!」
「そ、それは……」
「いや、ワシらはまだええ、宇志麻呂らを失った悲しみと、あいつらの思い出に浸ればええからな。けど、頭はちゃう。頭は、宇志麻呂らの家族に、それを伝えんといかんのやど! 斑鳩から派遣された長として、亡くなったヤツら、行方不明のヤツらの最期を、家族に伝えんといかんのやど。弟成の家族にもや。お前に、その辛さが分かるか!」
弓削は、黒万呂の胸ぐらを掴んで、怒鳴るように言った。
「奥さんに言われるやろうな、なんで自分の夫は死んだんだ、と。子どもたちに尋ねられるやろうな、父親はどこか、と。親に泣かれるやろうな、なんでワシの息子が死なんとあかんのや、と。みんなに蔑まれるやろうな、あいつらは仲間を捨てて自分たちだけ助かって戻ってきたんや、と。頭は……、頭は……」
弓削はむせび泣く。
「帰りたくなやろうな。ワシなら、帰りとうないもんな」
百足も、泣きながら馬手の背中を見つめる。
心なしか、馬手の肩が揺れている。
「それでも……」、か細い声があがる、足の傷に苦しむ鳥である、心なしか数日前よりも元気そうに見える、「それでも、ワシらは帰るんや……、どんなに仲間を見捨てたと蔑まれても……、白い目で見られても……、ワシらは帰るんや……、斑鳩に帰るんや、ワシらの家族のために……」
「馬鹿たれ、誰も卑下せんよ! ワシらは英雄や! 海を渡って、百済を助けにきた英雄や! 誰もワシら批判はできへん。させるもんか!」、小徳は怒っていた、「そやろ、頭、ワシらは英雄や、斑鳩の英雄やど」
「そや……、ワシらは英雄や! ワシらだけやない、多も、宇志麻呂も、次麻呂も、もちろん弟成……。みんな、胸張って帰るで。唐や新羅と戦った英雄として、胸張って帰るど。黒万呂、お前もや!」
馬手は、睨みつけるように言う。
どうも見透かされていたようだ ―― 弟成が見つからなければ、ひとりこの地に残ろうかと………………
「ええか、お前も一緒に帰るんやで、黒万呂。いまは大伴の兵士かもしれんが、まだ寺に話をつけていない以上は、お前は斑鳩の奴婢や。ワシの役目は、斑鳩の者を一人でも無事に連れて帰ることや。頭の命令や、お前も帰るぞ! 帰らんとゆうても、ワシが引き摺ってでも連れて帰る! もう誰一人、いなくなることは許さへんで!」
馬手の強い言葉に、黒万呂はそれ以上反論することはできなかった。