詩小説『引越物語』㉔アディクショナリーを持つ人
「なっちゃん、元気にしゆうろうか。」
正雄の心配は尽きない。
「もう立派な主婦なんだから。心配し過ぎよ。」
そういう凪こそ、心配で心配で二日に一度は菜摘にLINEしているのは秘密だ。
ほんとにね。ご飯すら炊いたことのない菜摘さんが結婚だなんて…。
あれ。あれあれ。
わたしもそうだったな。新婚時代、あんまり肉じゃがとカレーばかり作るから正雄さんに禁止されたんだっけ。懐かしいな。
大丈夫だよね、きっと。龍也さんの義両親も同居なんだし。
凪の一番の心配は、家事よりコミュニケーションのほうだった。独特な会話のルールは夫婦二人の時だけにしたほうがいいと思う、と昨夜のLINEにも書いたばかりだ。
菜摘の会話のルールというのは、好きなものへのリスペクトを日常会話に盛り込むことだ。
アニメに夢中になれば、その作品のセリフを家族や知り合いにも覚えてもらおうとする。
菜摘が映画やドラマに耽溺した時は、主演役者のように振る舞う。
それは一向に構わないのだが、周囲の者に脇役やエキストラを要求してしまうのが厄介だ。凪は映画好きだから、菜摘が寅さんなら凪はさくらになったりして、同居生活を楽しく過ごしたものだった。
兄の正雄はそういう時、あっさり蒸発した。
妹の不思議な言行を見て見ないふりをするのでなく、自分のほうが存在しないことにするのだ。注意したところで直らないのだから、「好きにしいや。」と哀しい土佐弁を合図に、その部屋から姿を消してしまうのだった。
マニアならではの会話が若い夫婦二人の運命を重ねたのだから、なにかを追いかけて生きていくのは素晴らしいことだろう。龍也にしてみれば、アニメ様様、映画様様なのである。が、おそらく義理のご家族に二人の世界は理解できないのではないか。
アディクション。英語の辞書には、中毒、渇望、依存などの言葉が並ぶ。
凪は何かに没頭することなしに生きていくのが難しい人を、とても愛おしいと思う。
菜摘の辞書は菜摘だけのものだった。でも、凪が同居を機に菜摘の辞書を開けてみれば、楽しい毎日が待っていた。菜摘のアディクション語録を集めた本・アディクショナリーを、凪は頭の中の本棚に拵えた。
今そのアディクショナリーを、菜摘は龍也と一緒に使って生きている。