ただ一人の人間として映す|『落下の解剖学』
※本編の内容に関する記述が含まれます
こんな上品かつスリリングで、一瞬も見飽きないサスペンスが見られるなんて。3時間近くの拘束を忘れるほどラストシーンまで夢中だった。
妻が夫を殺したのか、それとも夫の自殺なのか、という事件の真相に映画自体が決着をつけなかったのが、上品だと感じた理由のひとつだと思う。
ここで『落下の解剖学 最悪ver.』を考えるとすると、例えば「無罪判決を受けた妻のニヤリと歪む口元のアップ」だとか、「ラスト30秒、驚きの大どんでん返し!」だとかが入ってきてしまうんだと思う。心配するまでもなくジュスティーヌ・トリエはそんなことしないので大丈夫です。
主人公であるサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)を、「女」でも「妻」でもなく、そして特に肩入れするわけでもなく、ただ一人の「人間」として描いている気がした。
ヒステリックな女性芸術家、欲求不満なバイセクシャル人妻、のように、サンドラのある一つの側面を突出して描いてわかりやすくキャラ立ちさせるなんてことはせずに、あらゆる側面を持った人間の複雑さを複雑なまま映している。
そして登場人物をただの一人の人間として映す姿勢は、息子・ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)にも徹底されている。
物語終盤で、ダニエルがもう一度法廷に立ち証言するシーンがある。そこで彼は、過去に父親が自分に語りかけた言葉を思い出したと言う。過度に主観的で、証拠すらない、一人語りとしか言いようのない証言だ。それなのに、彼が泰然と語る言葉の強度は凄まじく、その法廷にいた大人全員が、観客までもが、あっけにとられてしまう。
検察があわてて「今の証言は主観でしかないので意味がない」と注意するも虚しく、彼の言葉がこの裁判の判定を決定づけてしまった。
なぜ皆があっけにとられてしまったのかといえば、簡単に言ってしまうと、ダニエルをなめていたからだ。彼の父親だって、ダニエルにはまだ伝わらないだろうと高を括ってあのような言葉を語ったのだろう。しかしダニエルは、その言外に滲む、父自身の弱さや、祈りのような、遺言のようなものを感じ取っていた。
物語内の誰もが、観客までもが彼を「子供」として、それも「視覚障害のある子供」として扱うなかで、ただ映画だけが彼を独立した人間として扱っていた。
母親に無罪判決が出たことをテレビで知ったときの彼の、言葉ではとても言い表せない表情の細やかな変化が忘れ難い。
それと、ジュスティーヌ・トリエもインタビューで「一般的な夫婦と逆にしたのは意図的なものです。」と語っていたけど、今の現実世界で当たり前とされているような性別役割が取り払われたその先の世界で起こる夫婦喧嘩だなという気がして、そこも面白かった。ほんとうに、そこまで行くのにはどれほど長い道のりなのでしょう。
あと犬さん凄すぎる。凄すぎるけど心臓縮まるような辛いシーンあるのでお気を付けて。(死にません)
ジュスティーヌ・トリエのインタビュー↓