習作_「律」
どっと教室が沸く。お調子者の勇樹がまた冗談を言ったのだ。担任の尾崎先生が勇樹をたしなめる。クラスの誰もがそんなことを構いもせずに顔じゅうをくしゃくしゃにして笑っている中で、ただ律だけが、表情を変えずに静かに前を見つめていた。
給食時間終了のチャイムが学校じゅうに鳴り響く。「廊下は歩きましょう~!」という先生の大きな声を背中に受けながら、男子たちが我先にと運動場へ駆けて行く。ほかの生徒たちも次々と席を立っては、教室の隅に集まって、お喋りして過ごしている。律は一人、席に座ったまま小さく息を吐くと、机の引き出しから物語の本を出して読み始めた。律が時々昼休みを一緒に過ごす真希は、男子たちと一緒に運動場で手打ち野球をしている。真希が律に話しかけない限り、律はいつも昼休みは本を読んで過ごす。
しかし今日は、しばらくすると、本を閉じて歩き始めた。3年1組の教室の後ろから廊下に出る。目的があったわけではない。心の赴くままに、校舎内をぶらぶらと歩きまわるのが律は好きだ。3年2組と3年3組を通り過ぎ、北校舎の階段を下りる。1階の渡り廊下からは、1階の1年生たちが教室で過ごす様子が見える。中には、律と同じように本を読んでいる生徒もいた。律は薄い眉毛を微動だにせずに少しそちらを見やると、今度は西校舎へと歩みを進めた。1階にある人気のない購買部を過ぎると、普段は使われていない会議室が続く。ちょうど2つ目の会議室の横にある階段を上ったところ、誰もいない理科室の手前に、引き出しの多いプラスチックでできた棚があった。そこには数々のベルマークが入っていた。
まだ小学3年生の律は、ベルマークが何に使われるのかをよく知らない。しかし何かに引き寄せられるようにその引き出しを開けてみると、種々のベルマークがごっちゃになって同じ引き出しに入っていた。別の、そのまた別の引き出しも同じである。同じ絵柄のベルマークが別々の引き出しに入っていたし、異なる絵柄のベルマークが同じ引き出しに溢れんばかりに入っているところもあった。かと思うと、ほとんど何も入っていない引き出しがある。律は「気持ち悪い」と思った。
律は、一人で引き出しの中身を棚の隣に置いてあった机の上にあけて片付けはじめた。初めは同じ絵柄のベルマーク同士を集めていたが、途中で同じ絵柄のものでも数字が異なるものがあることに気づき、それは別にした。幸い引き出しはたくさんある。律は分類が好きだ。図書室で本の分類番号に従って本を探すのも好きだった。
律はそれから数日間、毎日昼休みになると、そこでベルマークの分類をした。律はその時間、密やかで確かな愉しみを感じ、からだが熱くなるのを感じた。
先生に呼び止められたのは、あらかたのベルマークを分類し終えた頃である。
「加藤さん、何をしているの。」
突然の人の気配と自分の名を呼ぶ厳しい口調に、律は小さな体を強張らせる。手を棚の方へと伸ばしたまま、視線を下に落として固まってしまった。見られてはならない密やかな悦びを見られたような罪悪感が襲ってくる。
「何をしているんですか」
と再び問い詰める先生に、律は何も答えることができなかった。先生は律の近くに寄って、彼女の手元を見、きれいに分類されたベルマークの数々を認めた。
「まあ、あなた、ベルマークを整理してくれていたの。」
先生は眼鏡の奥の目を大きくして、律を見つめる。
翌週の月曜日、律は学年の朝礼で表彰された。律は名前を呼ばれ、小さな声で返事をすると、静かに前を向いて表彰状を受け取った。あの日律を見つけた先生の名前が書いてある。3年生の学年主任だったらしい。律は教室に帰り、まじまじとそれを見つめると、二つに折ってランドセルのポケットに仕舞った。
その後、律のクラスでは「ベルマーク係」なるものが設けられ、2人の生徒が係に就いた。律はその2人には入っていない。係決めの時、手を挙げなかったのだ。彼女はただ一人で静かに分類する作業とその時間を心底愛していただけだった。