「いい」はどこだ。
他人がくれた「いい」も 自分の「いい」になる。
他人がくれる「いい」が もっとほしい。
他人がくれる「いい」さえあれば いい。
…自分がくれる 自分への「いい」は、どこへ
いってしまったのだろう?
先日3人の仲間と展示を行いました。
これは、出展者の1人である僕の備忘録のようなものです。
いくつかの問いで「いい」はどこだ。
というテーマを咀嚼しています。
ゆったりとした時間を過ごしているとき、なんとなく自分の考えを巡らせたいときに読んでいただけたら嬉しいです。
1. 媒体
4種類の紙、ディスプレイ、SNSで写真を鑑賞する。
随分前に撮った写真もある。印刷して光の艶がより輝いて見えたり、澄んだ空がより繊細に溶け合っていたりする、中でも僕は画用紙が好きだった。ゴツゴツした壁の質感や、服の繊維感、スマホで観るだけでは認識できなかった臨場感が現れ、写真の端から端をゆっくり指先で撫でてみる。
心拍数が上がっていた。
見る媒体を替えることで、自分の感情が刺激された。
一方で、ディスプレイで見るほうがいいと思う写真もあって、最適な見方は作品ごとに異なる。
見る媒体を統一された世界での「いい」は尊さはあれど、脆く零れやすいものだと思う。
明瞭で零れない、自分の内側からくる「いい」を見つけて受けとめたい。
2. 価値
このボルトとナット、どれほどの価値があるように見えるだろう。値段、性能、希少性、特殊用途、ブランド … そんなことを考える。
実は、ホームセンターで100円ほどで購入できる。
なんでもないただの金属パーツ。
だがどうだろう、専用とも見れる正方形の台、敷かれた朱色の布、手前に置かれる白手。これらの 演出 によって見る人は価値観を揺さぶられる。
なぜ高価値または魅力的だと思うのか。
自分にとって本当に「いい」ものなのか、何らかの演出によってそう思わされているのか。僕はこの問いを考え始めてから買い物をする時も、ある空間に身を置く時も、演出の影響を受けているかということを意識している。
家具の商品写真を見れば、光の当たり方や近くに置かれている雑貨、食器、照明などによる演出の影響を受けているし、実店舗で見ても空間的演出は当然ある。スーパーでも「新発売」や「期間限定」という文字が演出である場合が(たとえ事実だとしても)大いにあると思う。
誰かが意図的に起こした演出1つで
自分の「いい」はまた迷子になる。
3. 生活
キラキラしたもの、ステータス的価値を象徴するもの、グレードの高いもの、もっともっと豪華なもの …
これらは自分にとってきっと「いい」ものだろう。
しかし、
いつも着ているユニクロのTシャツ、いつも使っているMONO消しゴム、ついつい飲んでしまうコーラ。展示したモノはほんの一部でしかないけれど、多くの人の生活に密接に関わり、支えてくれているモノたち。
これらも自分にとって「いい」ものに違いない。
より身近なものを「いい」と感じられることは、生活する中での感情を豊かにすると思う。
僕は捨てても死なないようなちょっと高価なカメラを使っていたり、洗うたびに神経を削るような(大袈裟かもしれない)ヴィンテージ食器を持っていたりするけれど、スマホで撮る写真も、意外と丈夫な100均のマグカップも最近は「いい」と思うようになった。
4. 物語
モルタル(セメント・水・砂から成る建材)で作られた、大小さまざまな立方体、加えて表面の仕上げで個体差を出している。積み方はゴロゴロとランダムな配置。360°どこにでも視点を置ける、正面のない展示。
さまざまな状態の個体が集まり、重なり、見え隠れする。小さなものから大きなものへ成長するのか、大きなものから小さなものへ削れて今にも消えそうなのか、はたまた融合や分裂を繰り返しているのか、亀裂があるものは何による衝撃を受けたのか、表面がサラサラしているものが新しいとも限らない。
この混沌とした集合体を観察して、見る人それぞれの物語を紡いでいく。
自分で「いい」と思った視点が
そこにはあるはず。
最後に
ここまで読んでいただきありがとうございました。
展示の当日には、いつもお世話になっている地域の方や、大学の後輩、SNSで繋がった写真仲間、通りすがりの方などたくさんの方々にご来場いただきました。差し入れも本当にありがたかったです。
コーラの展示数を当日減らしたことで大量に余ってしまい、無料で配布させていただいたのですが、快く受け取ってくださった方にも感謝申し上げます。(本当に助かりました。)
感想、コメントなどありましたらぜひお願いします。
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