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#1 五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係を深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!

順風満帆ほど怖いものはない : アリスの夫、エルネスト・オシュデ氏のあまりにパーフェクトな前半生


印象派という名前の由来となったモネの《印象、日の出》の最初のオーナーとして知られるジャン=ルイ・エルネスト・オシュデ氏は、1837年12月18日、開発が進みブルジョワ階級の住宅街となりつつあったパリ9区に生まれました。1840年11月14日生まれのモネより3歳年上です。オシュデ氏について、五郎さんや展覧会カタログでは「デパートの経営者」と紹介されていますが、文献によっては商人や貿易商とも記されています。実際のところ、どのような人物だったのでしょうか?

エルネスト・オシュデ氏を描いた、マルセルラン・デブータンの版画(1875年)仏国立図書館蔵。


オシュデ氏は1861年から、父カジミール・ジャック・エドゥアール・オシュデ氏の事業を継ぐべく、販売を皮切りにビジネスの修行を始めています。父親の事業とは、高級布地やカシミア、レース、最先端の小物を扱う1786年創業の歴史あるメゾン「シュヴルー=オーベルト」の経営です。一人息子のエルネストが生まれた頃、このメゾンで従業員として働いていた父カジミールは、ほどなくオーナーに代わって共同経営者になるほど頭角を現していたのです。つまり「デパート」と言われるのは、日本語のデパートから想像されるような大型の総合百貨店ではなく、高級衣料や装飾品を品揃え豊かに取り扱う大規模ラグジュアリーショップといった方が当たっているでしょう。

そのような格式あるメゾンの経営者となった父カジミールは、息子エルネストにビジネスのセンスを磨かせるため、商業の中心地ロンドンだけでなく、スイスやイタリアへも頻繁に旅行させました。しかし、理由はそれだけではなかったようです。当時、エルネストが夢中になっていた17歳のアリスから気をそらせる狙いもあったのではないかと言われています。

エルネストが熱を上げていた7歳年下のアリスの父、アルフォンス・レンゴ氏は「装飾用青銅の製作者であり、チュイルリー宮殿に時計や燭台を納めた供給業者」でした。オシュデ家と同じく、先祖はベルギー系です。この情報だけを見ると、なぜエルネストの両親が息子とアリスの関係を快く思わなかったのか、不思議に思われます。

しかし、同郷のブルジョワ階級同士とはいえ、その内情は一筋縄ではいきません。オシュデ家は、一店員から努力の末に由緒あるメゾンの経営者となり、堅実に財産を築き上げましたが、アリスはパリに暮らす大規模なベルギー人コミュニティの中でも著名かつ高い社会的地位を持つ家系の出でした。少し身分不相応とも思える上流階級の女性との結婚に、エルネストの両親はどうも不吉な予感を感じ取っていたようです。

いずれにせよ、息子のアリスへの熱意が父親の牽制によって削がれることは無かったようです。オシュデ家はついに、エルネストとアリスの婚姻に合意し、二人は1863年4月16日にめでたく結婚します。

アリスは結婚翌年の1864年3月18日に第一子マルトを出産。その後もブランシュ(1865年11月12日)、シュザンンヌ(1868年4月29日)、ジャック(1869年7月26日)、ジュルメーヌ(1873年8月15日)と、次々に子宝に恵まれます。

パリのラ・ペ通りにあったシャルル・フレデリック・ウォルトのブティックのファサード。オシュデ氏は「オートクチュールの父」とも称されるウォルトの店をはじめ、他の有名店でも多くの買い物をしていたと言われています。


一方、エルネストは商用で年に2回は渡英し、頻繁に旅行しつつ、自らも有名店での買い物を楽しむなど、ビジネスでも私生活でも、高級品に囲まれた生活を送っていました。これは、アリスの生活レベルに合わせる意図もあったかもしれませんが、高級品ビジネスを営む上で、自らもそうしたライフスタイルを持つことが不可欠だったようです。こうした姿勢が最もよく表れているのが、1867年のパリ万博に際して建てられたパヴィリオンでしょう。

1855年に続く2回目のパリ開催となったこの万博では、展示希望者が多すぎて十分な展示スペースが確保できませんでした。このため、父カジミールから事業を引継いだエルネストは、自費で展示場を建設し、大々的にメゾンの宣伝効果を狙うことにしました。父から前渡しされた40万フランを元手に、建築家ポール・セディーユに設計を依頼して建てられたルネサンス様式の「シュヴルー=オーベルト」のパヴィリオンは、エルネストの目論見通り、多くの人々の目を惹きました。セディーユは後にプランタン百貨店の建設で知られる有名建築家です。内部には贅を尽くしたレースやカシミヤが豪華に飾られており、これらも含めて当時のレビューで取り上げられています。

「ル・モンド・イリュストレ」に掲載された「シュヴルー=オーベルト」のパヴィリオン。


こうした経緯を見る限り、オシュデ氏は恵まれたブルジョワ家庭に生まれ、父からの全面的な支援を受けて順調なキャリアを築き、幸福な家庭生活を送る成功者として、順風満帆な人生のスタートを切ったように見えます。

ただし、人生には山あり谷あり。傍目には順風満帆そうに見えても、内実は複雑であることもしばしばです。実はオシュデ氏、これだけ恵まれた生活を送っているにもかかわらず、どうも心配性な一面があるようなのです。

そういえば、冒頭に挿入した彼のポートレートにもそんな性格が現れているように思えてきました。ポートレートは1870年代のもの。そうなのです! 第二帝政期(1852年〜1870年)のフランスは未曾有の経済発展を遂げた時代でしたが、普仏戦争(1870〜1871年)を経た1870年代以降、第三共和制フランスの経済は非常に厳しい状況に陥るのです。オシュデ氏の人生にもこれからドラマチックな出来事が起こるのですが、少し長くなったので、続きは次回にします。

次回はアートコレクターとしてのオシュデ氏をご紹介したいと思います。もちろん、モネも登場します!ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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