
#9 五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係を深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!
夫婦解体を招いた画家一家とパトロン一家の奇妙な共生生活
絵の売上げで生計を立てるのに苦労していたモネの一家と、破産して大半の財産を失ったオシュデ氏の家族(妻アリスと6人の子供たち)が、なぜかパリから西北に約60キロ離れたヴェトゥイユという小さな村で共同生活を始めたのは、1878年8月のことでした。モネは9月1日付の手紙で、「私はセーヌ川のほとり、ヴェトゥイユの見事な場所に腰を据えました」と記しています。
しかし、なぜ画家とその破産したパトロンの家族は共同生活をすることになったのでしょうか? 五郎さんはその理由を、モネとアリスの情事、そしてその結果生まれたとされるオシュデ家の第6子、ジャン=ミシェル・オシュデの存在に求めていますが、詳細は不明です。確かなのは、当初はオシュデ氏も同居しており、家賃も彼が負担していたことです。

しかし、約3年半に及んだヴェトゥイユ滞在中、12人の家族全員がともに暮らした期間はそう長くありませんでした。
まず、オシュデ氏はマネの紹介で『ヴォルテール』に寄稿する仕事を得ていましたが、それだけでは十分な収入にならず、仕事探しのためパリで過ごす時間が長くなり、ヴェトゥイユを留守にすることが増えました。
次に、寒く雨の多いヴェトゥイユの環境が、カミーユの体調をさらに悪化させました。妊娠中から調子を悪くしていた彼女は、パリで第二子を出産した後も回復せず、体調がすぐれないままヴェトゥイユに移り住みました。現在では考えられませんが、彼女は寒さを凌ぐためにアルコールを口にしていたのです。アリスがカミーユをどう思っていたかは定かではありませんが、熱心に看病していたことは確かで、母親宛の手紙に彼女を悼む言葉を頻繁に綴っていました。そして、1879年9月5日、カミーユは帰らぬ人となりました。

敬虔なカトリック教徒であったアリスの強い希望により、法的な婚姻関係しかなかったモネとカミーユは、亡くなる直前の8月31日、神父の訪問を受けて宗教婚を承認されました。カミーユはその際、終油の秘跡を受けたといわれています。
ところが、カミーユの死後もオシュデ氏が不在のまま、ヴェトゥイユでの2家族の生活は続きました。モネとアリスの関係がさらに深まったことは想像に難くありません。オシュデ家の子供たちもモネを「パパ・モネ」と慕うようになり、彼は実質的に両家族の主となっていきました。
こうなると流石のオシュデ氏も危機を察知せずにはおられません。妻にパリで一緒に暮らすよう提案しますが、もう手遅れです。アリスはまだ仕事が見つからないオシュデ氏に、「あなたが用意してくれた会計報告を見て、とても悲しくなりました。ここでの出費が多いと言うけれど、パリに行けばもっとかかるでしょう? とにかく、この件についてはまた話しましょう」などと理由をつけて、決断を先延ばしにします。
当然、これまで助け合ってきたモネとオシュデ氏の関係はぎくしゃくし、12月半ばにはオシュデ氏がモネに不満をぶつける場面もありました。しかし、アリスは「モネ氏を責めるつもりはありません。彼もまた、金銭的な苦境に心を痛めています。幸い、先月は私たちを助けてくれました……彼は懸命に働いています!」と彼をかばったのです。オシュデ氏は徐々にモネとの正面対決を避け、彼のいない時を狙って家族の元を訪れるようになりました。
こうして共同生活は夫婦解体を招きかねないデリケートな段階に突入するのですが、この表沙汰にしたくない「家庭内」の問題が、あいにくメディアによって暴露されてしまうという「事件」が起こってしまいます。

「印象派は、敬愛する巨匠の一人であるクロード・モネ氏の喪失という悲報をお知らせいたします。
クロード・モネ氏の葬儀は、5月1日午前10時より、プライベートビュー(内覧会)の翌日、パレ・ド・リンドゥストリーの教会にて執り行われます。
—カバネル氏のサロンにて。
ご参列はご遠慮ください。
『深き淵より(De Profundis)』
印象派のリーダー M. ドガ、故人の後継者 M. ラファエリ、Mlle. カサット、M. カイユボット、M. ピサロ、M. ルイ・フォラン、M. ブラックモン、M. ルアール 他、故人の元友人・元弟子・元支持者一同より」
この不愉快な《ガロワ事件》は、1880年1月24日に起こりました。伝統的に印象派を支持していた『ル・ガロワ』紙が、第5回印象派展へのモネの不参加をシニカルに葬儀告知形式で伝え、続く記事で、「Tout Paris」と署名するコラムニストがモネの私生活を暴露したのです。
記事には、「モネはヴェトゥイユで魅力的な奥さんと7〜8歳ほどの可愛い幼児2人とともに暮らしている」と記されていました。子供の数は両家合わせて8人でしたが、7〜8歳ほどと言っておきながらわざわざ2人の「べべ(赤ちゃん)」という表現が使われており、まるでモネの腹違いの息子2人を指しているかのようでした。

それだけではありません。続けて、オシュデ氏に関する名誉毀損ともいえる記述もしていました。
「彼は、印象派の作品を高額で買い集めた結果、すっかり破産してしまった… 今では単なる理想的な支持者となり、モネのアトリエで日々を過ごしている。モネが彼に衣服を与え、住まいを提供し、食事を与え… そして彼を我慢しているのだ」と。
ここまで書かれると流石にモネもオシュデ氏も黙っているわけにはいきません。モネはすぐに『ル・ガロワ』紙に抗議文を送り、掲載するよう求めました。しかし、同紙は1月29日の「雑報」欄に、「オシュデはモネの金銭的援助を受けていない」とする簡単な訂正記事を載せたのみで、モネの抗議文は掲載されませんでした。2人は諦めずに他のメディアを通じても抗議を試みましたが、結局、全ての試みは失敗に終わります。それどころか、2月号の『ラルティスト』誌に、『ル・ガロワ』の記事がほぼそのまま再掲載される始末でした。
ただ、報道の仕方には問題があるものの、『ル・ガロワ』紙が訂正したのは事実誤認の部分のみであり、モネがアリスと子供たちと共に生活していたこと自体は否定しようのない事実です。

亡くなったカミーユは、新しい同居人であるアリス・オシュデが落ち込んでいる様子を見かねて、オシュデ家の長女マルトに「なぜアリスは悲しんでいるの?」と尋ねるなど気遣っていました。モネとアリスとの関係がどうであったにせよ、カミーユは何も疑っていなかったような印象を受けます。ただし、カミーユが書いた手紙や受け取った手紙は、彼女が写った写真とともにすべて、アリスの命によって破棄されたため、想像の域を出ません。
オシュデ氏も、カミーユの死後になるまで危機に気付かないほど、悠長に構えすぎていたきらいがあります。すでにアリスからの手紙には「私の愛しい人」ではなく「親愛なる友」と呼ばれるなど、明らかに2人の間に距離が生まれつつあったにも関わらず…。
しかし、問題はやはりモネとアリスでしょう。特にアリスの人柄は深掘りするに足るものがありそうです。
次回はアリスの人物像に迫ってみたいと思います。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。