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戦車兵の大先輩司馬遼太郎

戦車兵や戦車乗りの世界には有名人、著名人が居る。
もちろん職業軍人の戦車兵は除く。

海外なら俳優のアーノルド・シュワルツェネッガーとかだ。
彼は私物で戦車を持っているとか。

日本なら旧日本陸軍の予備役将校であった福田定一少尉だ。

国民的作家「司馬遼太郎」その人である。

学徒出陣で戦車第十九連隊へ入営し、満州にある四平陸軍戦車学校へ入校し戦車兵となった。

戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。

手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。
司馬は、軍隊生活になかなか馴染めず、訓練の動作にも遅れが目立ち、同期生のなかでも戦車の操縦はとびきり下手であったが、「俺は将来、戦車1個小隊をもらって蒙古の馬賊の大将になるつもりだ」などと冗談を言うなど、笑みを絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しになっていたという。

戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま中国に配属になり、これが生死を分けた。

卒業後、満州国牡丹江に展開していた久留米戦車第一聯隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。

翌昭和20年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。

私も佐野市へは2度行ったが、戦車部隊があった面影はなく痕跡もなかった。
佐野駅前にかろうじて司馬遼太郎を顕彰する碑があるのみで、佐野市の郷土資料館にも何も残されてはいなかった。

敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」からであると述懐している。

司馬遼太郎は昭和35年に『梟の城』で第42回直木賞を受賞し産経新聞社を退社し専業の作家となった。
数々の歴史小説を書き国民的作家となった。

戦車に関しても幾つか書き残している。
エッセイ集「歴史と視点」だったり幾つもの本に出て来る。

有名なのが司馬遼太郎著『歴史の中の日本』にある一節だ。

昭和二〇年の初夏、私は、満州から移駐してきて、関東平野を護るべく(?)栃木県佐野にいた。

当時、数少ない戦車隊として、大本営が虎の子のように大事にしていた戦車第一連隊に所属していた。

ある日、大本営の少佐参謀がきた。おそらく常人として生れついているのであろうが、陸軍の正規将校なるがゆえに、二十世紀文明のなかで、異常人に属していた。

連隊のある将校が、このひとに質問した。

「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵上陸とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は、戦場到着までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」

高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。だから大本営少佐参謀も、ごくあたりまえな表情で答えた。

「轢き殺してゆく」

私は、その現場にいた。私も四輌の中戦車の長だったから、この回答を、直接、肌身に感ぜざるをえない立場にあった。

(やめた)

と思った。

そのときは故障さ、と決意し、故障した場所で敵と戦おうと思った。日本人のために戦っているはずの軍隊が、味方を轢き殺すという論理はどこからうまれるのか。

私はこのとき、日本陸軍が誕生したとき、長州藩からうけついだ遺伝因子をおもわざるをえなかった。これはあとでのべる。

(中略)

大正、昭和に軍部の主導権をにぎったひとに、東北人が多い。戊辰戦争で「賊軍」にされた藩から、多くの軍人が出ている。
かれらは西国諸藩出身よりも、より以上に「勤皇屋」になり、陸軍の「長州的暴走性」のうえに、狂信性を加えた。
東条英機の祖父が南部藩士であり、旧会津藩士の家計からも多い。
かれらは、「わが藩は、薩長よりもむしろ尊王の伝統が深かった」というさまざまの藩伝説を誇大に教えこまれて維新後育った家計の出身である。
一種の史的コンプレックスからぬけるために、非常な精神家になる場合が多かった。

「轢き殺しても進め」

といったひとは、東北人であり、「天皇陛下のためだからやむをえない」とつけくわえた。

(『歴史の中の日本』)

この話は司馬遼太郎の創作であると今は言われている。
当時、東北出身の大本営の少佐参謀に該当する人物がいなかったことと、学徒出身の少尉風情が大本営の参謀少佐にそんな質問出来るわけがない。

実は、この話は幾つか変遷していてニュアンスも違い、司馬に直接聞いたとする人正しく「新品少尉にそんな質問を大本営の参謀少佐に出来るわけがない」と答えていたのでも判る。

小説家だからね。

最近はNHKで「坂の上の雲」が再放送されて再び注目を集めている。

私は子供の頃から乃木希典大将を尊敬して止まないが、司馬遼太郎の作品「殉死」「坂の上の雲」ではさんざん愚将として描かれ乃木崇拝者から嫌われていた。

私が中央乃木会へ16歳の時に入会し、後に自衛隊入隊、東京の乃木神社内にある乃木会事務所へ訪問した時のことである。

こには元砲兵少佐で元陸将補の有名な方が居た。

「職種は何?」聞かれた。

「機甲科です」と元気よく答えた。
「機甲科は戦車?」と聴かれたので「はい、戦車乗員であります」と答えた。
すると「戦車かあぁぁ」と何やら残念そうに言った。
「それは司馬遼太郎ですか?」と聴いたら頷いていた。
その方は「名将乃木希典 司馬遼太郎の誤りを正す」という本も出しいてるアンチ司馬の代表的な人だった。

そういう思い出が司馬遼太郎にはある。


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