ギルティ女史とキスマーク
今日も慌ただしいオフィス。
ギルティ女史はいつものように猛スピードで仕事をこなしている。
【ギルティ女史はプラダを着ない】
「働くとは、仕事とは何か」を教えてくれた、元上司のぶっ飛びストーリーをまとめたエッセイマガジン。
※連載ですが1話完結のためどこからでも読めます。
ところで、この部署には「ライブラリー」と呼ばれている場所がある。
立派な名前がついているが、簡単に言うと本棚である。
ギルティ女史の席の後ろにずらりと並んだラテラル(引き出し)型のスチール製のキャビネット群。
そこを通称ライブラリーと呼んでいて、その中にはオフィスの蔵書として保存してある国内外のデザイン本やカタログなど様々な資料が収納されている。
グラフィックデザインからプロダクト、建築などジャンルもさまざまで、中には絶版となってしまっていて今や入手が困難な本もあるらしい。
タトゥーのデザイン写真集などからDTPの入門書まで、とにかくなんでも入っていた。
その中に何を入れるか決めるのは、もちろんギルティ女史である。
彼女は、定期的にそのライブラリーの整理をする。
と言っても、分厚い本を出したり入れたり、ストレージの中を磨いたりするのは当然私なのだが。
そしてそのタイミングで、彼女はスタッフにもどんな本を見たいか、ライブラリーに新しく蔵書して欲しいものはないかとリクエストを募る。
そこから予算やスペースなどを考慮しつつ彼女がみんなの為になるだろうと思った本や、リクエストがあって且つ蔵書するべき本と判断したものは新しくライブラリーに入れる。
「だってデザイン本ってありえないくらい高いものとかあるでしょう?あなたのお小遣いでそんなもの毎回買ってたら破産しちゃうかもしれないけど、ただの趣味じゃなくて、みんなにもためになるようなものなら私にリクエストすればいいのよ。
そしたらお金出さずにいつだって見れるわよ。超お得じゃない?こういう時に会社や私を使うのよ。」
「なるほど...。すごく勉強になりますし、助かります!」
「まぁでもあなたは自分の欲しいものをリクエストする前にまず、ここにある本を一度全部読破することね。」
「ぜ、全部...ですか。」
「別に細かく読み込まなくたっていいわ。パラパラ眺めるだけだって十分勉強になるし、貴重な資料もあるから何かのインスピレーションになったり、頭の片隅に入れるだけでも将来絶対使えるはずよ。」
「わかりました。読ませていただきます!」
「もちろん、仕事が終わってからね。ラベルが貼ってあるからちゃんと返せば家に持って帰ってもいいわよ。」
彼女はライブラリーに蔵書する本には、きちんとデザインされたラベルシールを作って全ての本に貼っていた。
要返却と書かれた裏表に貼られる面と、ちょうど背表紙にあたるその間には、おそらくストックフォトか何かで拾ってきたであろう赤いルージュの唇の写真が施されている。
ジャンルによって貼り分けされているかはわからなかったが唇のパターンも数種類あり、ストレージにずらりと収まっているその背表紙はなかなか壮観である。
まるでキスマークの見本市のようだ。
とは言ったものの、実際このライブラリーに蔵書のリクエストをするスタッフはほとんどいなかった。
考えるに皆、日々の仕事に忙しすぎて本を眺めたり、新しい本をチェックする暇がきっとなかったのだと思われる。
「今回もみんなリクエストがないわけ?あーつまんない。っていうかもったいない。私だったらあなた方くらいの年だったら山程読みたい物があったし、今でもいっぱい見たいものだらけなのに。」
そう言いながらストレージを開け、ぱらぱらと本をめくる。
そして彼女は私に聞いた。
「で、あなたは?どこまで読んだの?」
「あ、はい。えーと...この段のものは大体目を通しました。ほかは、徐々に読み進めております...。」
歯切れの悪い答えに、いつものようにギルティ女史は一度眉を上げ、ゆっくりと瞬きをする。
「あっそう。本を読むのも遅いのね。どんどん見てインプットしていかないとアウトプットする前に死んじゃうわよ。」
「はい。すいません、読みます...。」
嘘は言っていなかったが、私はそのライブラリーの本を読み進めるのに、確かにかなりの時間がかかっていた。
いつも終電近くや、時にはそれを過ぎてまで仕事をして、また次の日誰よりも早く出社し、めまぐるしく仕事をこなす。
そんな日々の中で、なかなか時間が取れなかったというのもあるのだが、もう1つライブラリーの本はその重量が私を憂鬱にさせていた。
デザイン本というのは値段が高いというのもあるのだが、ものによってはものすごく大きくて分厚く重たいものもあるのだ。
いくら返せば持って帰ってもいいと言われても、ただでさえ日々の業務でくたばっている体で、寝落ちして読めないかもわからないこの重たい本を抱えて持って帰るというのが、その当時の私にとっては精神的にかなりの重労働だった。
そんな事を言ってもこれは言い訳だ。
自覚はある。怠慢である。
結局、自分の興味が湧いたものは大体読むことはできたものの、私はそのオフィスを離れる日までに全ての本を制覇して、彼女に「読み終わりました!私はこれをライブラリーに入れてほしいです!」とまで言うことはできなかった。
彼女はやはり私たちとは比べ物にならないくらいデザインを愛しているし、時間の使い方がうまく、色々なことに興味があっていつまでも勉強熱心だ。
全てを吸収して学ばなければと意気込んでいた私だが、その圧倒的なデザインへの情熱や、パワーを注ぐモチベーションの差に敬服するとともに、ほんとに自分は怠け者だなと思ったのだった。
そんな彼女がキスマークを寄せた、ためになる蔵書コレクション。
やっぱり分厚い本を抱えて帰り、寝る間を惜しんででも全部見ておけばよかったかもしれない。
職場を離れた今でも私はそれを少し後悔していて、たまにあのライブラリーのことを思い出すのだった。
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