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良い匂いのする水、あるいは高揚と陶酔を求めて

本や映画で「時間の研磨に耐えた古典さえ読んで、観ていれば良い。人生の時間は有限なのだから確実に良いもの以外を追う時間はない」という意見があるが、言いたい意図はわかるものの納得しかねる気持ちが長くあった。
現代において新たに生み出されるものは、自分が生きてきて、いま、ここにいることと世の中の混沌が交差する場所にある。
そこでしか見えない価値も生まれるはずであるのに、見る気もないと嘯く気には、どうしてもなれない。
現在は「古典を学ぼうとしないのは愚かであり、現代を無視するのは不誠実である」という結論に至る。

ワインも同じ考え方に至った。現時点で思うところを以下に述べたい。

なお、便宜上「クラシック」と「ナチュラル」という区別をするが、ものすごく雑に言うと前者は先発として世にあったタイプのワインでエチケット(瓶に貼られたラベルだ)に文字が多い、後者は後発として世に出てきたワインでエチケットは派手なグラフィックが多い
有機栽培が添加物がどうとかでは単純に線が引きにくいし、そもそも後者に明確な定義はないのだから飲むだけの立場ならこれくらいざっくりでもだいたい区別はつく。

もともとアルコールは嫌いでなく「ワインについてわかるようになりたい」と漠然と思っていても、全く距離が縮まる気配が見えなかった。
今にして思えば、目標が定まっていなかったから、言い方を変えれば自分は何をもって「わかる」と捉えているのかがぼんやりしていたからだと思う。

最初は、果実みがあってそれなりにタンニンが強めの赤ワインが「美味しい」と思っていた。ここから長いことなかなか先に進めなかった。
(この「好み」には理由があることを後になって知る)

ワインバーにも行ってみたことがある。
話題からすると公認会計士か何かと思われるひとたちがボトルをたくさん開けていた。メニューもなく値段もわからないカウンターで、自分が飲みたいものがどんなものかも、うまく伝えられず、きわめて心細かったのを今でも覚えている。

ナチュラルワインが流行り始めて、そこまで肩肘張らないような店で飲めて、瓶のラベルも今までと違う感じが見て取れて新鮮だった。1,000円以下で買える中では美味しいコノスルなどで覚えた数少ない品種とも全く違っていて、とにかく「既存のものとは違う」というメッセージを発していることは理解できた。たくさん飲む内に少し心理的な距離は縮まったように思うが、一向に「わかる」には至らなかった。
ここから、ナチュラルワインを飲むものの一向に「わからない」が続く。

それでも、なんとなくワインに関する本は読んだりしていた中で「ワインはテイスティンググラスを買って、飲み比べてみるとより特徴がわかりやすい」と書かれていたのを見て「そういう比べ方の軸もある」ことを面白いと思った。
うっかり「テイスティンググラスを買おうか」と発信したら、常にワインを飲んでいるような方から「なぜですか?」と訊かれて理由を話した。
そのひとはブルゴーニュが好きだから良さをわかって欲しいと思われたようで、ワイングラスとワインをセットでいただいた。

その時、いつまでも「わからない」ままではいられない、と思った。道を示していただいたことに対して、責任が芽生えた。
また、その頃に友人が「どうせナチュラルワインは変わったものばかりだから勉強しても仕方ない、する気がない」と言っているのを聞いて、自分も言ってきたようなことではあるのだが、自分は「勉強しない、のではなく、したくなかったんじゃないか」「いつまでもわからないふりをしたままでいたかったんじゃないか」という隠れた怠惰に初めて気づかされた。
知ろうともしていないのに「品種について勉強したって結局、ナチュラルワインはそれぞれ違う」と嘯いていたら、場数だけは踏んでいるから知らないわけではないんです、という顔もしつつ、いつまでも発言に責任は伴わない。圧倒的に「ラク」なのだ。表面に上らない奥まったところで「わからないままでいたい」と思っていることこそが学習の阻害要因になっていると気づいて、愕然とした。
自分は本当に知りたいと思ってなどいなかったから、頭に入ってこなかったのだ。
あらためて「セオリーを知らなければ逸脱もわかるわけがない」と考え直す。当たり前のことかもしれないが、そんなことさえ、知らないふりをしていた。「わかってきたけどわからない」がいかに無知の知を装うポーズであったことだろう。

いったん基礎からやり直そう、と決めたのが2020年くらいだった。ワインを飲み始めた時から数えるなら、かなり年数が経過している。
今更「ワイン一年生」を読んで、店で「ブルゴーニュとボルドーの特徴はどう違うんですか?」と詳しいひとからしたらアホみたいな質問をした。

自分の中には根深く「ふっかけられたらどうしよう」という臆病さがあることも自覚した。だからワインバーが恐かったし、1,000円程度のワインばかり飲んでいたら、いわゆるパーカーポイント高めの赤ワインを美味しいと思うのも当たり前なのだ。
ワインのわかりにくさを100点満点で評価しようとしたもと弁護士のパーカーさんによって、彼に高評価をつけてもらうべく多くのワインが彼好みに寄っていった経緯がある。だから「安旨ワイン」はだいたい似たところに落ち着く。売れるように作っているから。知らないままに安いワインでも赤は美味しいと思っていたことには理由と経緯がある。

グラスで飲めて、かつ明朗会計のところを選んで行く。
もしくは素人が参加できるテイスティングを探して参加することにした。
なんでワインは値段を明確にしないのが良しとされているのか、ずっと疑問に思っている(日本酒は酒器によって量を明示しなくても許されているのと似ている)新規ユーザーは遠ざかるだけだと思う。どんなジャンルであれ、常に新しいファンを獲得していかないと衰退するに決まっているのに。

ある時「これは特にエチケットに品種が何とか書いてはいないんですよね。この土地ならピノ・ノワールだからわかってるでしょうということなんでしょうね。書けばいいとは思うんですけど」と聞いたとき、「わかりやすくグラフィックな」ナチュラルワインのラベルは「アペラシオンコントラーレ」などと書かれたクラシックなワインへのあからさまなアンチテーゼなんだと、その時一瞬で理解が降ってきた。
ナチュラルワインが「気軽に飲める」と思えてきたのも、権威になってしまっているようなワインの飲み方に対する反発だったと、いきなり腑に落ちた。

なるべくどんな風味かをなぞって言語化する。できたら教本みたいな本と照らし合わせて答え合わせをする。インポーターで特徴が違うこともわかったから、インポーター主催のテイスティングに行く。古いヴィンテージのクラシックを飲む機会があれば飲む。並行してナチュラルワインも飲む。

意識していろいろ飲んでみると、名が知れた銘柄でも「ストレートな美味しさではない」「尖った風味があること自体に値打ちを見出す」ものも少なくないこと、古いヴィンテージは、既に知っているものとは違うという意味で「面白い」ものも多いことが見えてきた。
一方、ナチュラルワインで「最初は面白いと思えた風味もありきたり」「臭い、嫌な雑味がある」ものも見られるが、ものすごく洗練された複雑さが調和しているものもある。

「わかる」ということは何なのか、について再度考えた。仮に美術館に足を運んで「わかった」と言う場合、その理解の仕方には2種類あると思っている。
見るものを、美術史や歴史の中でどう位置づけられるかということ。または、見るものを"自分は"どう思うのかということ。両者は相互に作用し合う。平行して交わらないものではない。
いま、ここに生きてきた個人史と、大きな意味での歴史がバチッと噛み合うこともある。

ワインを飲む理解についても、似たものがある。
このワインの来歴がどうで、価値がどれほどであるかということ、フレーバーについて"共通言語"で語ること。自分の経験と分かちがたい、記憶のインデックスが呼び起こされて出てくる感慨をもって"個人の言語"で語ること。ソムリエ資格のように前者のような立場も大事ではあると思う。共通言語とされるような理解が無ければ、そもそも話が通じない。それとは別に、そのひとの「解釈」としての発露が、原体験に根ざした詩のようであっても、それもありなのだ。
ポエティックな表現も、基本を外さないからこそ説得力を増す。知識を求めるのは、自由にもつながる。
また、諸条件について他のアルコールに比べるとワインは驚くほど揺らぐ。一緒に食べるものや温度、グラスに注いでからの時間…これも噛み合うと、信じられないほど素晴らしくて再現が難しい。その得難さこそが楽しい。

風味を要素分解するようなのが当てものをしているような馬鹿馬鹿しさに思えてきて、ワインの輪郭すらとらえられないもどかしさを覚える、素晴らしいハーモニーになっているものが、稀にある。
そうした素晴らしいものは、ナチュラルでも、クラシックでもある。便宜上分けた区別が、ここにきてぼやける。
自分は少なくともワインを飲む時に酩酊を求めておらず、陶酔を求めていること。感動するワインを飲みたい、また、ぴったり噛み合う状況を探したいのだということがわかった。自分にとっての目的はここにある。

【ここ二年くらいで印象に残っていて思い出せるもの】
・1969年のバローロ
・フーリエのシャンベルタン
・チェコのヤロスラブ・オセチカの「BB(2017)」
・レイナルド・エオレの「オー」
・コルシカの赤、ドメーヌ・ズリアの「イニシャル・ルージュ」
・ジャクソンのシャンパーニュ
・マルク・ペノの「トリ マルトロード」
・オチガビワイナリーのケルナー

【恐くなく、かつ感動するワインに出会えた店】
相性もあるから各自探されたらいいと思う。
ワインショップの角打ちスタイルで提供される有料試飲は本当におすすめ。早く知りたかった。

ブラッスリーランコン(梅田)Instagram
常時30種類くらいグラスで飲めるすごい店。
メニューボードには「90mlで800円」など、全て詳らかにしてある。
ボトルの価格が高いものは量を減らすなどして1,000円くらいに収まるように調整されている。店の前には「フレンチ居酒屋」という看板が出ていて、とにかく敷居を下げたいんだな、というのがわかる。飲食関係のひとの支持も厚い。シニアソムリエの小田さんはソムリエを目指すひとにブラインドテイスティングを付き合っていたりするらしく、久しぶりにInstagramで検索したら「織田さんのおかげでワインを知ろうと思えましたし、ソムリエ資格取得できました!」と良い笑顔で乾杯している写真が見つかって、何といい店なのだろうと思った。心から嬉しそうにワインを注ぐところは、見ていて楽しい。
店のテイストとしてはナチュラルワイン〈〈クラシック寄り
ナチュラルも置かないわけではない。インポーターでいうとラシーヌは見たことがあって納得する。

salvis(天満橋)Instagram
店主の野口さんいわく「ものすごく入りにくいワインショップ」らしい。
おしゃれだからか、確かに店内で飲んでいると通りすがりのひとが店内を覗く視線をめちゃくちゃ感じる。来るひと来るひと皆それぞれに寄り添って親身になってワインを選んでいるのを感じる。勇気を出して踏み出すひとには、優しい店。客を選ぶというとちょっと違うのだけど、お店のスタイルについてきてくれるひとを求めているのを感じる。
月一でテイスティング会をされていて、いつも何かしら驚きと出会いがある。
店のスタイルとしてはナチュラル〉〉クラシック
店主はナチュラル至上主義ではなく、魂が震えるワインに区別はないと考えておられる。店に並ぶものは、個性的な品揃えだと感じる。

mature(南森町)Instagram
ここはちょっと厳しさというかヒリッとする緊張感があるのと、ある程度は知識あって当たり前でしょう?という雰囲気があるのが他とはカラーが違う。ただ、カジュアルなところばかりではなく、たまに背筋が伸びるようなところにも行った方が成長すると思っている。
「あ、そうか、それは当たり前なんだ。あとでちゃんと調べておこう」と会話から察することもあっていい。
あくまでワインショップなので、購入前提でカウンターでグラスで飲める(とはいえ毎回絶対に買わなければいけないというわけではなく、安く飲めるんだ!と騒ぐ目的でお越しになられるのはちょっとそぐわないという意図らしい)。
グラス一杯いくらか示してあるし、その日のスペシャルワインで一杯2,000円超えるようなものはハーフで頼めるので、経験が積める。値段もメニューもないワインバーに行くよりも、ずっと良い。
ナチュラル〈〈〈クラシック
ほぼクラシック志向なので、ナチュラルに飽きた又はナチュラル以外の文脈を取り入れるにはうってつけ。

タカムラ(肥後橋)
有料システムが楽しくていいんだけど、知らないままにここだけにずっと通っていてもわからないままな気がする。独学の限界がある。あくまでメインではなく補足として使うのがいい。いろいろ飲んでみたいんだよね、とか、本でしか知らないあのワインが少量で飲める!と確かめに行く使い方は全然あり。

そういえば、ナチュラルワインについていけすかなさを感じるとしたらファッションや流行で飲んでるように見えるからだろう。もともと、体制に反動することは少数派でありたい・先駆けでありたい・などの欲求と、それらを付加価値として盛んに消費していこうという態度は全く矛盾しない。
美味しい美味しくないではなく「嗜むひとが少ない」ことこそが価値となり、それを模倣するひとが増えた結果、ありふれたものになってダサくなる。流行はそれらの繰り返しである。
クラシックなワインに対していけすかなさを感じるなら、共通言語を自分が知らないことから感じる疎外感や権威に対する反発かもしれない。

個人的に「流行りもの」として扱われるナチュラルワインはそろそろ寿命だ。流行りものが好きなひとであればあるほど遠ざかる頃合いに来ている。
店がどんなスタイルで提供しているのかが、より問われて淘汰されていくだろうとみている。

(参考)
ワインで考えるグローバリゼーション」(NTT出版ライブラリーレゾナント/山下範久)
図解 ワイン一年生 」(サンクチュアリ出版/小久保尊) 
ワインがわかる」(白水社/マット・クレイマー)
ワインの飲み方、選び方―ジャンシス・ロビンソンのワイン入門」(新潮社/ジャンシス・ロビンソン)

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