未来の自分が「嫉妬する」作品を目指そう
フリーライター&イラストレーターの陽菜ひよ子です。
今月にはいって、noteに本格復帰を果たした。過去には360もの記事を投稿しており、その裏には100もの熟成下書きもある。
日々記事を書くと、何か大いなる力が働くのか、マガジンや記事がちょこちょこ売れている。とくに宣伝もしていないのに!
そこで、ここ数年ほとんど何もしていなかったマガジンのテコ入れなどする。また、記事を日々更新するに当たって、過去記事を発掘している。
そこで、ふと気づいてしまったことがある。
ライターとイラストレーターのはざまで
noteを過去に更新していた2019年~2020年頃と比較すると、仕事は劇的に増えている。毎日更新はただでさえハードルが高い。新しいネタを探す労力をできるなら節約したい。
使えるものは使おうという「エコな精神」から過去記事を掘っているのだが、意外とお宝が出てくる。磨けば光る記事(の出来損ない)がゴロゴロ。やるではないか、過去のわたしよ。
2006年にフリーのイラストレーターになった。2007年からたまに文章の仕事を請け負うようになったが、わたしはあくまでも「イラストレーター」だった。
イラストレーターとライターの自分の中での順位が逆転したきっかけは、2020年に出た著書『ナゴヤ愛』だった。
以下、わたしの主なお仕事歴。→詳細はコチラ
このnoteをはじめた2019年は、本格的にライター業をはじめる前だ。そのせいか、当時の下書きはどれも、今読み返すと粗削りだ。
「おいおい」と苦笑交じりで突っ込みたくなるほど、炎上の危険をはらんだ危ういモノもあって、冷や汗交じりに注釈を入れる。
気づけばストライクゾーンど真ん中へ投げている
しかし、ふと思う。もしかして、過去の自分の方がおもしろい、のではないか?
過去の自分に軽く嫉妬すら覚える。
もちろん、この4年間でやってきたことは無駄ではない。書くのは格段に速くなったし、論理が破綻することもほぼなくなった。
でもその分、ソツなく書くことも覚えてしまったような気がする。こう書けば絶対安全な「ストライクゾーンど真ん中」にしか、球を投げられなくなってしまったような気がしてしまうのだ。
過去の自分の文章はもっと暴走気味だった。デッドボールや魔球すぎて、バッターも打てないけどキャッチャーも取れない、こともあったけれど。
うまくギリギリの線を狙えれば、場外ホームランも狙える可能性を秘めていた気がする。
そもそも、何がウケるかなんてわからない。わかったら誰も苦労はしない。それなら守りに入るより暴走した方がいい。
ソツなく万人に当たり障りなく読まれる文章は、きっと誰にも刺さらない。
誰に向けて書いているのか?
ところで、文章を書くときに、ターゲットを決めろとはよくいわれる。ペルソナといって、かなり細かく人物像を設定することもある。ターゲットは狭いほどよいとされ、ペルソナ像は具体的であるほどよいとされる。
あとよくいわれるのが「過去の自分」に向けて書くとよいということ。
「女性向け」より「40代女性向け」より「40代既婚女性向け」より「40代既婚子なし女性向け」より「40代既婚子なしバツイチ女性向け」より「40代既婚子なしバツイチ東京住まい女性向け」より「40代既婚子なしバツイチ東京住まいフリーランス女性向け」より「40代既婚子なしバツイチ東京住まいフリーライター女性向け」のほうが、当たり前だが当事者には刺さる。
狭すぎても需要がないので「40代既婚子なしバツイチ女性向け」くらいで止めとくのがよいだろう。それでもけっこう少数派だな。
未来の自分が嫉妬する文章とは
「2019年の自分」は常に「過去(2006年頃)の自分」に似た誰かに「伝えたくて」真摯に言葉を重ねて来た。それは今も同じ。
ただ最近、そうした自分の真面目さが「必死さ」にすり替わって、自分で痛々しく感じられるようになっていた。50にしても惑うのだ。15年以上仕事をしていても立つなんて無理。
でも、誰かに「真摯に伝えよう」として書かれたものは、たとえどんなに拙くても、きっと人の心を打つ。過去の自分の文章に、それを教えられた。
過去の自分は間違っていなかった。嫉妬すら覚えるほどに。
うっかり「守りに入ろうとする」未来の自分が嫉妬する文章を、今の自分は書けているか?耳に心地いい言葉でごまかさずに、率直な想いを伝えているか?
ときどき自分で確認しながら書き続けていきたい。