産むと育てるが分離した性教育を脱しよう
国政で出産率低下に対する支援として、出産費援助が報道されています。
それに対して思うことが「産む」ということと「育てる」ということ点と点でしかなく、線で繋がれていないような感覚を得ています。
また、性教育に関しても近年はもっと積極的にという声が上がっています。それは望まない妊娠を減らす目的があるためです。
これも私にとっては「産む」と「育てる」が点と点になっている要因のように感じてしまいます。
女性がそれらの点について意見を述べ、それを知ろうという流れはあるのはとても素晴らしいことだと思うのです。しかし、その一方で男性に対してはどう考えているか?というものよりも「男性もわかるべきだ」という様なコラムが多い様に感じるのです。
では男性はそこに意見をしてはいけないのでしょうか?
意見交換という相互性がそこに無いことで、出産・子育てが点のままになっているのではないでしょうか。男性が出産をすることができないことで、そのことに関して参加させないというのはのちに始まる子育てに関しても責任を負いにくくするように感じます。
自分が子である経験は記憶が消失していない限りほとんどの人がしているわけで、違いがあるのは養育者側の環境がそれぞれ違うわけです。
そのため男性だからわからない、という考えで押し付けるのは更に理解を深めない方向へ行くのではないかと思います。男性なりに自分の子どもだった経験から考える「出産」と「子育て」があるはずで、それを一方的に否定することで嫌悪感や劣等感を残し、間接的に子育てから敬遠させることにも繋がるはずです。
尊厳や自由を語るときに誰かを蔑むことは、また新たな差別を生みます。
実際にどう行動していくべきか?
幼児期や初等教育(小学校低学年)の時期から異年齢交流・異文化(障害者を含め)を設け、男・女の枠組みだけでないコミュニティを肌で感じる経験ができる場面を設けていくことで刺激を受けて
人にはさまざまな事情があるんだということを知ることが必要と感じます。
それと並行的に男性、女性という生物的な役割や性教育を学び、出産と子育てを考えることが必要と感じます。性教育で、「妊娠」と「産む」ということだけを考えるのは危険です。
教えるだけではなく考えてもらわないと意味がありません。
たとえば 男性は女性や子どもを守るべき。というような教えは、女性や子どもは弱い!という方へ導き兼ねません。指標ような教育になると二極化世界を作りかねないのです。
知らないということを受け入れた上で意見を聞き、考えていくという姿勢で参加を味わって、未来へのイメージを膨らませるのです。
「産むと育てる」の枠の中に「家事」が入ったり、「収入を得ること」が入ったり沢山のイメージを作って、擬似体験して本質を捉えようと模索することが
身体の成長とともに点と点を繋いでいく作業になるのではないかと思っています。
同性同士でも分かり合えないことはたくさんあります。
保育士や障害児支援をしていて思うのは、養育者には頑張りどころがわからないという方が意外と多いなということです。
親・家族にしかできないところ、誰かに頼らないとできないところがある子育て。子どもを抱えながら社会で働くことに対してどんな制度があり、どんなところにお金や労力が掛かるのかなどを含めて話し合うことが子どもたちには大切だと思います。
望まない妊娠を学ばせるためだけでなく、その先のことをイメージさせていく、「妊娠=悪いこと」「性行為=危険なもの」というような端的なキャッチコピーのような学ばせ方ではなく、いろんな側面や立場から考えるというような形になって欲しいと思います。
若くして産むことを選んだ人を否定せず、心配だと思うならば手を差し伸べられる様に。
血の繋がらない子を育てるという選択肢も「子育て」に、含まれるという様に。
男性も女性も同じように意見を述べ合える意識作りが出来る様に。