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卑弥呼ファン集まれ―!!(2-1)

Notionで「卑弥呼と邪馬台国」を公開https://www.notion.so/52cc670639da4bb59f6c25a3d0ed973f

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                 クリックして訪問してえねー。
魏志倭人伝  解説
 
  魏志倭人伝の 解明の難しさ 
  魏志倭人伝には 東京大学の 大和説と 京都大学の 九州説 の二説があり、 何が本当か 分からないというのが 常識となっている、
  この事柄から言えば、峯相記すら 読み切れないのに 魏志倭人伝が 読み切れるはずがないのです。
  それに合わせて 播磨風土記神前郡多駝里邑日野条は、 学説では「オワチノ」 との誤解釈が 学説として定着してしまい それすら 直せないのが現状である。
  たとえ徒然草を読んだとしても 全くに閃かず そんな中で 魏志倭人伝など 読めるはずがない のですよねー。
 
  私の感触では、 卑弥呼(阿遅須伎高日子尼命神)は、 若い時に「漢」の國を 訪問している。 そしてその 文明を 覚え 持ち帰っている。
  そしてその次には、魏の 国の 傀儡政権。 「伊都国」は「出雲」。
「出雲」は帯方郡より水行10日。 邪馬台国(山に囲まれた國) 固有名詞ではない。
邑日野(日野国) 山に囲まれた国。 出雲から 陸行で 30日かかる。
と言っているだけ。
 
魏志倭人伝の文節
倭人在帶方東南大海之中からは   国の位置  甲氏の話
南至投馬國水行二十日からは    国の位置  乙氏の話
女王之所都 水行十日「伊都国」出雲 陸行一月 邪馬台国 邑日野
      播磨国 1~9の種(くさ)集落
       古代文書の漢字の当て字は、「おん」を大切にし、
漢字の意味に惑わされないこと。
南至投馬國水行二十日からは    倭国の状況の話
収租賦有邸閣からは        政治の話
下戸與大人相逢道路からは     倭国の状況の話
其國本亦以男子為王からは     政治の話
女王国東渡海千餘里からは     国の位置   の話
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡  239–247年(8年)の政治の話
復立卑彌呼宗女壹與からは   247年–265年(12年)の政治の話
魏の国の45年のうち 後半20年の記述。
なぜ 邑日野(ふのむら・くに)と読むのか。
  菅原道真公の 曾祖父 土師(はぜ)古人が 大和国添下郡邑菅原に住んでいて、桓武天皇に菅原宿祢の改姓を申し出て了承されたもの。
 邑菅原が「菅原村」なのに、邑日野が「オワチノ」、いい加減にせーと言いたい。
 徒然草第107段 「女の物言いかけたる 返事(かえりごと)。」安喜門院
 
〈魏略曰 其俗不知正歲四節 但計春耕秋收爲年紀〉
そこの人は 四節で 一年ということを知らず。春 耕して 秋に収穫するの計らいを年紀としている。
 
〈臣松之以爲地應爲綈 漢文帝著皁衣謂之弋綈是也 此字不體 非魏朝之失 則傳寫者誤也〉
 
【臣松之以爲地應爲綈漢 女帝着鬼衣硝之弋之鬼 此字不禮 非魏朝之失】
 
 ここの所では、魏の話をしているのに、いきなり漢の文帝、こりゃーダメだー。
 漢の時代ときに、女帝 弋(とび)色・金色の衣を着て、漢帝に接見を求めたので無礼。朝見できなかった。
魏じゃなく漢の傳写誤りと述べている。
 (ここで推測できることは、女帝卑弥呼が、皇帝にに接見を求めた。)
三国史記(新羅本紀)
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来」)
 この2つの記述から、卑弥呼が漢に使者として訪づれたことは間違いがない。?
 
 海外の新しい文化を見てこないと、斬新なことは何もはじまらない。
   鉄器文化の導入
   稲作文化の導入
  当時、馬で鉄剣を持った戦士に勝てるはずがない。
  上手に、魏に取り入っている。【 名日卑彌呼 事鬼道 能惑衆 】

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