饒速日命を考える②(古代史構想学)
饒速日命は丹後国から由良川をさかのぼり、本州で最も低い分水界の石生を経由して加古川を下り、播磨灘から大阪湾、河内湖を航行し、河内国へやってきました。彼が率いてきた集団はその後、河内国に定着することになり、その地が物部氏の本拠地となっていきます。また一方で、饒速日命自身は河内から大和へ移動します。おそらく大和川を遡ったのでしょう。到達したところは奈良盆地の真ん中に位置する磯城郡田原本のあたりだと思います。ここには弥生時代の大遺跡、唐古・鍵遺跡があり、饒速日命はここを大和における拠点にしたのではないでしょうか。そして間もなく長髓彦を従えました。その後、東征してきた神武天皇の配下に入ることになったものの、その後裔一族が繁栄していくことになります。
冬至の日、この唐古・鍵遺跡から南東方向に見える三輪山の山頂から日が昇るといいます。一年で最も日照時間が短い、すなわち太陽の力が最も衰える冬至の日、彼らは太陽が昇る三輪山に対して、これ以上、太陽の力が衰えないようにと祈ったことでしょう。彼らにとって三輪山は祈りの対象、すなわち神奈備山でした。後裔一族はやがて、その神奈備山に祖先神をも祀るようになります。その三輪山の山頂には大物主神が祀られており、おそらくその神が彼らの祖先神でしょう。なお、大物主神と大国主神は同一神だと言われていますが、山頂に祀られるのが大物主神で、大国主神は中腹に祀られているので、別々の神と考えるのが自然です。(そう考える理由はほかにもあるのですが、話がややこしくなるのでここでは触れません。)
さて、時代は下って崇神天皇の時、疫病が流行って国民の半数以上が死亡し、また、農民の流浪や反逆が相次いだときに、天皇の夢に大物主神が現れて「我が子の大田田根子に自分を祀らせればすぐに収まるだろう」と告げました。その大田田根子は茅渟県の陶邑(すえむら)で発見されますが、陶邑は須恵器の窯跡が多数発見された大阪府堺市南部から和泉市に広がる丘陵地帯を指し、この一帯は716年に和泉国として分轄されるまでは河内国に属していました。古事記にも書いている通り、大田田根子は河内国の人物です。
河内国と言えば物部氏の本拠地であり、大田田根子もその系譜に属する人物ではないでしょうか。また、日本書記には大田田根子は大物主神の子であり、三輪氏の先祖でもあるとも書かれています。さらに記紀ともに大田田根子が大物主神を祀る祭主に任じられたことを記します。特に古事記には大三輪之神である大物主神とあり、大物主神と大三輪神が同一であることがわかります。大田田根子を介して登場人物の整理をするとこうなります。(赤字は私の考え。)
このように考えると、大物主神というのは饒速日命の子孫である物部氏が祀る神であると言えます。言い換えると、物部氏が祀る大物主神は、その祖先である饒速日命である、つまり、物部氏の祖先神=饒速日命=大物主神ということです。饒速日命が大和で神武天皇に敗れた後、その後裔一族はこのようにして天皇家のもとで物部氏として神事を担当するようになっていきました。
(つづく)