饒速日命を考える①(古代史構想学)
記紀神話では天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日本の国土を治めるために高天原から降臨し、その子孫である神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)が日向から東征して大和で初代天皇として即位しました。しかし日本書紀によれば、その神武天皇に先駆けて大和を治めていた人物がいました。それが饒速日命(にぎはやひのみこと)です。
饒速日命は物部氏の祖先とされ、天磐船(あまのいわふね)に乗って大空を廻ったときに「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と言って大和に降り立ちました。実は古事記では神武天皇の後を追って来たことになっています。
記紀ともに饒速日命が大和にいたことを記すのですが、どこからどのような経路を経てやってきたのか、についての記載がありません。しかし、記紀とは別に饒速日命の降臨を記す史料がふたつあります。「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)と「海部氏勘注系図(あまべしかんちゅうけいず)」です。前者は物部氏および尾張氏の、後者は丹後の海部氏の系譜や伝承が記されるものです。後者は国宝に指定されるほど価値のある史料なのですが、それとは対照的に前者の先代旧事本紀については偽書説があり、史料としての価値に疑問を抱く考えがあります。しかし、記紀が神話も含めてその記述内容には何らかの史実が反映されていると考える立場に立つのであれば、先代旧事本紀についても同様に考えるべきと思います。
さて、その先代旧事本紀によると、饒速日命は天神の御祖神の命令で天の磐船に乗り、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降ったとあり、降臨の際の様子が詳しく描かれています。その様子はまた改めて書こうと思いますが、この降臨地は一般的には、大阪府交野市を流れる天野川上流にある磐船神社とされています。でも、私は少し違う考えをしています。物部氏の本貫地は現在の大阪府八尾市(まさに河内のど真ん中)とされています。したがって、その祖先である饒速日命が降臨した地はその本貫地近辺の峯、すなわち生駒山地南嶺の高安山あるいはその東にある信貴山のいずれかではないかと考えています。つまり、饒速日命が初めて畿内にやって来たとき、八尾のあたりに到着して居を構え、後裔の物部氏はそこを中心にして繁栄していった。だから、そこから見える峯を降臨地としたのではないかと。
その後、大和の鳥見(とみ)の白庭山に遷り、土着の長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃としました。これは長髓彦を帰順させて大和を治めたと解することができます。
一方、勘注系図の降臨伝承からそのルートだけを抜き出すと次のようになります。饒速日命は高天原から丹後国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に降り、いったん高天原に戻った後、再び丹波国の凡海息津嶋(おおしあまのおきつしま)に降りた。そして由良之水門(ゆらのみなと)に遷り、天磐船に乗って空に登ってから凡河内国に降り、そのあと大和国鳥見白辻山に遷った。その後、再び天に昇って丹波国に遷って凡海息津嶋に留まり、最後は籠宮に天降った。
なんだかあっち行ったりこっち行ったりとややこしいですが整理すると「高天原→丹後国の伊去奈子嶽→高天原→丹波国の凡海息津嶋→由良之水門→凡河内国→大和国鳥見白辻山→丹波国の凡海息津嶋→籠宮」となります。
これによると、饒速日命が降臨に際してまず向かった先は大和でも河内でもなく丹後国の伊去奈子嶽となっています。丹後半島の付け根の真ん中にある標高661mの磯砂山のことで、古代より羽衣伝説が語られ、伊勢神宮外宮に祀られる豊受大神が降臨した山とも伝えられます。その後、いったん高天原へ戻って、再び丹波国の凡海息津嶋(現在の冠島と言われています)に降り、由良之水門を経由して河内へやってきました。
勘注系図は丹後を本貫地とする海部氏の伝承を記しているので、その祖先とされる饒速日命を丹後に降臨させたのです。一方の先代旧字本紀は物部氏の伝承なので、その本貫地である河内に降臨させました。
ともかく、由良之水門を経由したということはおそらく、由良川を遡って本州で最も低い分水界である石生(いそう)を越えて加古川をくだり、瀬戸内海から河内湖(現在の大阪市の上町台地よりも東側には大きな湖あるいは潟が広がっていました)へ入って河内に上陸したのだと思います。この石生というところは標高が95メートルほどしかないので、日本海側から瀬戸内海側へ抜ける最も楽チンなコースです。江戸時代にはここに運河を開発しようという計画があったくらいです。(しかし、この運河計画は北前船の繁栄で頓挫したそうです。)
こうしてたどり着いたのが凡河内国ということです。この河内の地で、河内国の河上の哮峯に降臨したとする先代旧事本紀と話が合ってきます。そしてこのあと、大和に移って土着の長髓彦を帰順させます。記紀ではここまでの経緯をすっ飛ばしていますが、このあと東征してきた神武天皇に従うことになるのです。
(つづく)