「信じる」と「疑う」のハザマ
今の世の中、常に情報には疑ってかからなきゃならない。
沢山の人々が発信できるようになった今、玉石混合の情報がゴロゴロ転がっている。選別しきることはかなり難しい。
何事にも疑ってかかることが苦手だと思う。
私は大体周りの人の言葉は鵜呑みにするし、SNSで「へーそうなんだ」と思ってしまう事も少なくない。
実際は「いやいや何か含みがあるな」「一次ソース調べないと……」と思い直すのだが、その度にちょっとだけもやっとする。
「この情報を疑った上で信じるか、信じる上での根拠を論理的に説明できるか」
これを常に念頭に置いてインターネットの波に乗ることは大切だし必要なことだ。
けれど、信じるとか疑うとか、それをきっぱり決めるのがとてつもなく苦手だ。
騙されてもいいから信じたい
疑うことをしなきゃいけないのは、信じたいと思ったからだ。
信じたい、けれど信じていいのかわからないから疑う。元々嘘だと思う情報は疑う前に興味がなくなる。
インターネットに流れてくる言葉達は面識のない人の言葉も多い。「これは嘘だな」と思ったら無視すればいいし反論する必要もない。少なくとも私は自分と異なる意見の知らない人に反論はしない。
SNSに流れてくる友達の話もそう。別に何を信じていようが私に強要してこない限り受け流す。「あなたはそれを信じているのね、それはいいと思うけど私は違うよ」と思う。
ただ、人間信じたいものがある。
何を信じたいか、布教しているかは千差万別だが、誰もが信じたいことを持っていると思う。それを強要されるのはいやだけれど、共感したいと思う時が私にはあるのだ。
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