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人間に『時』を教えた太陽


𑁍 人類最古の時計

人類最古の時計、それが『日時計』
日時計は、太陽の動きによって変わる影を利用した時計です。
今から5000〜6000年くらい前のエジプトで最初に作られたと言われていますが、紀元前4000年前後にメソポタミアの古代バビロニアで使われていたとする説もあります。

何千年も昔から使われていた日時計は、その後、古代ギリシャ、古代ローマの天文学者たちによって、日時計の基本的な理論と技術が確立されていきました。
古い呼び方では、日晷儀にっきぎとも言います。『』とは中国語で日陰のことです。英語では『サンダイヤル』。

実は、日本は海外から『日時計王国』と呼ばれる国なのです。それは、『世界で一番正確な日時計作家』と称された日時計の権威 小原銀之助氏がいたからです!

どうして今回、日時計の話などしているのか。その流れを簡潔にまとめますと・・・。

① とある霊夢を見て、宇宙元旦の日に東京都福生市に鎮座する熊川神社を参拝する

② 熊川神社が映画『ちはやふる』のロケ地であることを知る

③ 令和元年、競技かるたの聖地である近江神宮に参拝していたことを思い出す

④ 熊川神社もしくは鎮座地の福生市と、近江神宮との間に何か繋がりがないか探してみる

⑤ 近江神宮には龍の形をした火時計など、珍しいものが色々あったなぁ・・・。もしかしたら、福生市にも火時計、または日時計があったりして??

⑥ とりあえずググってみる。と、福生市にも日時計があることが判明!!!!!

⑦ 何か重要なピースがありそうなので、日時計がある場所へ実際に行ってみることに・・・(noteの内容は今ココ)

大かまに説明すると、このような流れがあったわけです。

福生市の日時計に行く前も行った後にも、近江や天智天皇、天武天皇、額田王など、あの時代、あの場所に関わりのあるものの夢を見たり、メッセージやシンクロが続いています。

実は、エネルギー的に重要な場所、神事かみごとに必要なピースが落ちているような場所、いわゆるパワースポットというのは、わかりやすく神社仏閣の形をしていたり、山や磐座などの御神体と呼ばれて祀られているものだけではないのです。

❦ 福生市立中央図書館

■ 施設情報
所在地・・・東京都福生市熊川850-1
営業時間・・・火水木金 10:00〜20:00
                     土日 10:00〜17:00
定休日・・・月曜日
アクセス・・・JR青梅線「牛浜駅」徒歩7分

ということで、やって来ました。福生市の日時計があるという福生市立中央図書館です!
目的の日時計は、図書館入口の目の前にあるのですが、先客がいてゆっくりと見られなさそうだったので、少し図書館の中に入ってみることにしました。

この図書館の造り、結構好きだなぁ〜。
最近リニューアルされて、書架や机が新しくなったそうです。静かな環境で集中できるレファレンス室もある。
ゆっくり読書したり、資料あさったりする時にまた来たいなー。図書館と併設して、福生市の郷土資料室もあったので、それはまた後ほど書きますね。

❦ 地球をまたぐ零磁場

こちらが、日時計王こと小原銀之助氏によって作られた日時計です。
小原氏による作品は世界で400個程あり、日本では国立科学博物館の日時計などが有名。

デザイン的にはシンプルで無駄のない感じですね。残念ながらこの日は太陽があまり出でおらず、時計としての日時計を見ることができませんでしたっ・・・!(笑)
ということは、わたしがここに来た理由は、『時計として機能している日時計』を見ることではないということだ思う。

この記事の冒頭で、パワースポットというのはわかりやすく神社仏閣の形をしていたり、山や磐座などの御神体と呼ばれて祀られているものだけではない・・・という話をしました。
それを証明するようなことを、小原さんは日時計の説明書きに記していました。

「石の、この地球儀をまたぐと、ホントの地球をまたいでいるのと同じです。気が大きくなります。時々ここへ来てまたいで下さい。」と書いてありました。
“石の地球儀”というのは、日時計前に設置してある三つの地球儀のことかな。
やはり、ここはそのようなエネルギー的な場所でもあったのですね!
これはわたしの感覚ですが、ここで『陰陽』のサインも受け取りました。ということは、ゼロ磁場のような場所でもあるのかも?

--日時計と日本の歴史の話をすると。
日本の公文書に登場する最初の日時計は、奈良時代に遣唐使として中国の唐に留学していた、後の右大臣  吉備真備きびのまきびが735年に帰国する際に持ち帰ったという『測影鉄尺』です。
真備は、手塚治虫の漫画『火の鳥』の鳳凰編にも登場している。また、真備は日本の陰陽道の祖とも言われる人でもあるのです。
わたしが福生市の日時計で陰陽のサインを受け取ったのは、もしかしたら『真備』のことを示唆していた可能性もあったりして・・・?

熊川神社参拝の記事にも書きましたが、正確な範囲まではわかりませんが、この辺りの福生市〜青梅市くらいまでは“火の鳥の土地”なのです。それが、日時計の日本の歴史〜真備〜漫画『火の鳥 鳳凰編』にまで繋がった。
実はこの後、お茶をしに行ったカフェでも近くの席の会話から『火の鳥』というワードが聴こえてきたのです。
ここまで重なってくればわたしの感覚だけじゃなく、この辺りの地域と火の鳥との結び付きは確かにあるってことだと思う!

❦『みずくらいど伝承』からの・・・石棒!!

図書館に併設されている郷土資料室も覗いてみました。西多摩の玄関口として、そして東京のベッドタウンとして発展してきた福生市の歴史を見ていきましょう。

市内の不動尊遺跡(約8000年前)や長沢遺跡(約4000年前)で土器や住居跡が発見されており、縄文時代からここで生活していた人々がいました。
美しい文様をした縄文土器も出土し、出土した土器四点が、福生市指定文化財となっています。

しかし、縄文時代中期以降の人々の生活の痕跡は明確には見つかっていないそうです。更に、この後の弥生時代・古墳時代〜平安時代に至るまでの間、人々の生活の痕跡は確認されていない。
この間は、人々が住めなくなるような大きな変化があったということなのか、またこの地域が耕作に適していなかったことや近隣に有力な支配者が存在しなかったことなども理由として考えられています。

江戸時代になると、福生村は幕府領、熊川村は幕府領と旗本領として支配されました。
それは幕末まで続き、熊川内出地区を知行したのは旗本田沢氏、熊川鍋ヶ谷戸地区を知行したのは旗本長塩氏で、どちらも甲斐武田氏の家臣だったという。

承応二年(1653)には玉川上水が開削されます。
『玉川上水起元並野火留分水口之訳書』(上水起元)という江戸時代の書物に、玉川上水開削時のことが記されている。
これによると二度の開削失敗のあと、羽村から多摩川の水を取り入れ玉川上水は完成したとそうだ。
一度目は、現在の国立市青柳付近からの取り入れに失敗。そして二度目の失敗は福生から水を引き込んだが、熊川で地中に水が吸い込まれてしまい失敗。
このことから後に『みずくらいど』の伝承が生まれました。玉川上水の五丁橋の下流には、当時の失敗した堀跡が現在も残されています。ここが『みずくらいど』の跡地・・・。

言うまでもなく、神事的にも多摩川はとっても大事な川でわたしも現在担当しているけど、玉川上水も大事だ・・・というか、「君の担当だよ。」と言われたことがあった。
前に住んでいた吉祥寺の家の近くにも玉川上水が流れていたんだよね。ここからずっと繋がって来ていたんだ。

福生には『みずくらいど公園』と名のつく公園があり、そこに玉川上水開削工事跡もあるようだ。ここにも一度行ってみようか。
そこからずっと玉川上水沿いを走って、羽村取水堰まで上ってみた方がよさそうだな。
あー、これはサイクリングでもしたら氣持ちがいいだろうなぁ。

郷土資料室には、縄文土器や絵画、板碑の他にも、昭和レトロな家庭風景、酒樽など、様々な時代の色々な分野のものが所蔵されていました。

そして。この時、今月のマンスリーピックアップとして特別展示されていたものがありました。

せ、石棒・・・・・・です。
石棒の意味は、説明しなくとも皆さんご存知ですよ、ね? 簡単に言うと、土偶は女性を象徴し、石棒は男性を象徴する祈りの道具です。

市内で唯一の完成品であるこの石棒は、江戸時代の玉川上水の掘り替え時に発見されたものと考えられています。
玉川上水を探索してみないとわからないけど、マンスリーピックアップが石棒だったことにもきっと意味があるんだろうなぁ。

最後に。日時計の説明書きには、とても氣になることが書いてありました。
『台座の空洞内にタイムカプセルが収納されている』だって・・・!!


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