自分の本音が見えるとき・・・。
昔から青色が好きだった。
だからか、車も、女だてらに?ブルーの車にした。
幾分若い選択だったけど、これ、と思った。
持ち物もブルーが好きだ。
けど、自分にとっては意外だけれど、女性ならではの色が好まれることも多い。
例えばピンクが似合う、と言われたり・・・。
今日は、雨でなければよかったなあ・・・、と思っていた。
水仕事がたくさんしたかったのである。
実は、私は、昔から、水が好きだった。
どろんこ遊びをして怒られたり、食器を洗うことが結構好きだったりした。
なんでわざわざ食洗器を置く必要があろうか?と思うくらい、食器洗いが好きだったりする。
けど、今日は、もっと水に関係ある、大物は洗いたかったのである。
それに、窓ふきもしたい。
雨だよなあ・・・。
本当は雨も好き。
昨日、俵万智さんの歌を思い出していた。
昔、まだ、待つということを知らなかった頃のこと。
本当にこの歌はわからなかった。けど、惹かれた。
ー誰を待つ何を吾は待つ〈待つ〉という言葉すっくと自動詞になる
そのうち、この、「待つ」という意味がものすごく実感をもって感じられるようになった。
残念ながら、恋というわけではなかったけれど。
本当に「待つ」というのは自動詞だと思う。相手なんかいない。相手なんかどうでもいい。自分の中だけの、「待つ」。
何かがわかるための「待つ」かもしれないし、何か事が熟するための「待つ」かもしれない。
ただ、自分の中の事理が至るのを待っているのかもしれない。
また、自分の外界の何かの時理が至るのを待っているのかもしれない。
生活は待つことの連続だ。
大事な人をもつということは、待つということと、ほぼほぼ同義だ。私にとって。
愛することを守り抜くのにも、「待つ」ことは必要だ。
もう一首。
どうしてその歌が好きなのかわからないし、その立場になったこともないのに好きな歌。
ー妻という安易妬まし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの
私は、その墓参に連れ添う側で、その気持ちをものすごく理解していたって、なんで?
とは思ったものの、その当時、ものすごく響いた歌だった。
もしかしたら、安易でないから、安易に見える、その気持ちがわかったのだろうか・・・?
最近、歌が詠みたくなる。誰の指導も受けてはいないけれど、それでも歌が詠みたくなる。
そうして、歌は、ときに、その構造から、自分が、何を思い、何を感じていたのか、思い切り洗い出してくれることがある。
そう、残酷とも言える、露見とも言える手法で・・・。
先日は、歌ではなかった。
けど、ある授業を受けていた私は、ある発言をした自分の言葉に驚かされ、その言葉の中にある自分の気持ちに気づいた。ある人への気持ち。
待ってるんだよ。あなたがしあわせになるのを。
その人も、水が好きだった。水という存在が特別なようだった。
自分が発したその言葉があまりにも好きで、私は何度も何度もその授業を観なおしている。
自分の、その発言を何度も聞きたいがために。
私の本音が詰まった、その言葉を何度も噛みしめるために。