別れを選んで、次に行くときに思うこと・・・。
周りから見たら、いじめられた、とか、その人をみじめな表現で表して、それで納得している場合もあるだろうと思う。弱いから集まらないと何も言えない・・・。
ちょうど生徒の、過去のいじめ問題について考えていたときに、この記事に出会った。
私が相談を受ける、いわゆるいじめの根底にあるのは、むしろ弱い人だから・・・、というより、自分を脅かすから・・・、ということが原因のように思えてならない。
八つ当たり、とかいうように、本当に弱い人がいじめられるのかなあ・・・。むしろ、何かの能力が感じられて、その能力を発揮されては困るから、なんとか押さえておこう・・・、というような。
たとえば、小学校のときの葛藤は、高校の同級生と話しているとき、あまりにみんなの経験が同じで笑ってしまうほどのことが多かった。
ちょっとおませな子たちが、わかっているのに、手を挙げなかったことについて、先生から、わかっているのに手を挙げない、と懇談会で指摘された、とか、小学校の時にいじめられた話だとか・・・、どこか似通っていた。
たまたまなのかな・・・?
私の受けるいじめの相談をされるお子さんは、どこか素敵なものをもっている。才能なのか、感性なのか。
むしろ俗世間の評価で何かを評するのが申し訳ないような感性であるとか、あるいは可愛い感じ、とか、いわゆるgiftedなタイプが多い。
飛び出られてはいけないとけん制されるタイプというか・・・。
みんな自分を守りたいから。
みんな自分が大事だから・・・。
それを動物たちは、めちゃくちゃ本能的にやっているということだろうか?
本能的であることがよいことなのか?それとも理性的なことがよいことなのかはわからない。
人間的、ってどういうことだろうか・・・?
でも、何らかの才能があったり、突出している人って、どこかで必ずと言っていいほど、何かそういう経験しているものなんじゃないかな・・・、と思いながら、生徒さんを見守っている。
今生きていく元気を出してもらえる言葉を探しながら・・・。
そして、その秘めた可能性を見つけて、磨いていきたいという気持ちをもちながら。
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