【F1ドライバー紹介】音速の彼方へ…【追悼】
こんばんは。暇人33号です。
本日は先日にご案内した、伝説のF1ドライバー、アイルトン・セナのお話をします。…あの日から本日で28年経ちました。
F1関連の投稿をする以上、避けては通れない(と筆者は思っている)人物である、アイルトン・セナ。
極めて有名な人物ですので、F1にそれほど関心の無い方でも、セナの事なら知ってるという人は少なくないと思います。
⬇️セナがどんな人物か知りたい方へ⬇️
ですので、セナのプロフィールは敢えて語らず、今回は1994年のサンマリノGPにおいて、セナはどのような最期を迎えてしまったのか?や事故の原因などを中心にご紹介して参ります。
宜しければ、ご覧くださいませ。
呪われた週末
1994年のサンマリノGPは、明らかに異常なものでした。BBCの解説者マレー・ウォーカーは「私の知る限り、グランプリレース史上、最も悲しい日」と形容するほどのものでした。
予選一日目においては、当時新人ドライバーだったルーベンス・バリチェロ(セナと同郷)が、大事故により鼻骨を骨折して、レースの出場が出来なくなりました。
続く予選二日目においては、同じく新人ドライバーのローランド・ラッツェンバーガーのマシンのフロントウイングが脱落、コントロールがきかなくなったマシンは、時速300キロ以上のスピードでコンクリートウォールに激突して、即死してしまいます。
決勝当日においても、スタート時にJ.Jレートのマシンがストールし、それを避けきれなかったペドロ・ラミーが追突。破片やタイヤが宙を舞い、フェンスを乗り越えて9名の観客がケガを負いました。
そして、その「呪われた週末」にセナも巻き込まれる形となってしまいました…。
1994年、5月1日
度重なる事故により憔悴しきったセナは、F1のコース上の当時の医療チームリーダー、シド・ワトキンス教授に決勝の出場を止められますが、
と返しました。予選にも出場し、極めて操縦の難しかったウィリアムズFW16でポールポジションを獲得し、決勝に臨みました。
そして、5月1日ー
決勝スタート直後、先述のJ.Jレートとペドロ・ラミーとの事故により、セーフティーカーが導入されました。
しかし、当時のセーフティーカーは現在のように車種が統一されておらず、各サーキットで用意された車を使用していました。
よってセーフティーカー性能がまちまちで、性能が低い(遅い車)場合は、後続のF1カーのタイヤ温度が低下してパフォーマンスに大きな影響を及ぼしたのでした。
当時イモラに用意されていたセーフティーカーの性能は低いもので、それによりセナのマシンのタイヤ温度も必要以上に冷え込んでしまったのです。これも事故の原因の一つなのではないかと筆者は考えています。
(一応、「ウィービング」と言われる、ジグザグ走行によってタイヤ温度を保つ運転方法はありますが、それにも限界があります。)
コース上からマシンの破片が撤去され、ローリングスタートでレースが再開されました。
その2周後、ミハエル・シューマッハを抑えトップを走行していたセナは、「タンブレロ」でコースアウトし、減速が間に合わず時速211キロでコンクリートウォールに激突してしまいました…。
当時の「タンブレロ」はアクセル全開で駆け抜ける高速コーナーで、1987年にネルソン・ピケが予選初日にクラッシュし、1989年にはゲルハルト・ベルガーがレース中にクラッシュしマシンが炎上、1992年にはウィリアムズのリカルド・パトレーゼがテスト走行中にクラッシュして首を負傷するなど、事故の耐えないコーナーでした。
14時17分に赤旗が提示され、レースは中断となります。シド・ワトキンス教授が手当のために事故現場に赴きます。壊れたマシンから出されたセナは、近くにある病院にヘリコプターで搬送されました。
しかし、懸命の手当もむなしく、セナは帰らぬ人となってしまいました。
事故の原因とは
事故の真相については、様々な要因が考えられます。筆者が所持しているエイドリアン・ニューウェイの「HOW TO BUILD A CAR」のFW16の項目には、
ステアリングコラムの破損。セナは大きいハンドルが好みで、取り回しの観点からステアリングシャフトを切断して再溶接していました。再溶接したステアリングシャフトが、バンピーなイモラの路面が生み出す振動に耐えきれず、金属疲労を起こして断裂してしまった。
スタート直後の追突事故の破片が撤去されきっておらず、その破片を踏んでスローパンクチャー状態に陥り、タンブレロでバーストしたためにコースアウトした、
等が書かれておりました。
当時の筆者に、セナの事故はどのような影響を与えたのか?
当時の筆者はまだ6歳でした。よく父親と一緒にビデオ録画されたF1を観戦していたのを覚えています。何故幼少期からF1観戦に夢中だったのか、理由は分かりませんけど、とにかく貪るように見ていました。
どのチームが強いのか?とか、どのドライバーが速いのか?など、そういうのを全然理解していませんでしたけど、とにかくF1全体が醸し出す雰囲気が好きだったんだと思います。
その中でも一際魅力的に感じたのがセナで、セナが勝った日は自分の事のように喜んでいたのでした。
筆者がセナの死を初めて知ったのは、レース翌日に放送された「めざましテレビ」を見る事によってでした。
当時「めざましテレビ」だけでなく、各テレビ局がセナの死に触れていて、かなりセンセーショナルなニュースは世界中のみならず、日本においても響き渡ったのでした。
ニュースの映像を見ると、あまりにも激しくコンクリートウォールに激突したその様を見て「これは助からないのだろうな」という事を感覚で悟りました。
しかし、ヘリコプターからの空撮映像では、一瞬セナの頭が動いたので、「もしかしたら生きているかもしれない」という思いも捨てきれずにいました。死んでしまった事は分かっていても、です。
しかし、フジテレビで後日放送された特別番組において、F1の解説者が泣きながらセナの死に触れている様を見て、「本当に死んでしまったんだ」と漸くセナの死を受け入れざるを得ない事が分かりました。
…
……
………
本当に、本当にショックでした。当時の筆者は先述の通り6歳で、小学校に入学したばかりで、新しい環境にまだ慣れきっておらずナーバスな精神状態でした。
その上、セナの死となると日々の通学も憂鬱になりました。通学こそ出来ましたが、しばらく立ち直れなかったです。
「もうあんな思いをしたくない」と当時の筆者は感じて、それ以降、2018年までF1を見る事はほとんど無くなりました。
安全対策の進化
二名のドライバーの痛ましい死亡事故を受け、FIAは次戦モナコGPに向けた安全対策を発表。更に、元ワールドチャンピオンのニキ・ラウダによりグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)が再結成されました。
GPDAはFIAに、F1の安全性の改善を要求し、それに対してFIAは迅速に対応しました。
それら対策により、以降21年間死亡事故が起きる事がありませんでした。
何かが起きてからしか、人は対策を打つ事が出来ないのか?もっと安全対策が早目に打ち出されていたら、94年に一気にハイテク装備が禁止されずに、徐々に使用出来なくなる方向性であったのならば…。
色々と考えてしまいますが、ともあれ以降はF1マシンの安全性は飛躍的に向上したのでした。
最後に
如何でしたでしょうか?
2回連続で重い投稿となってしまいました。
しかし、冒頭でもお話した通り、どうしても避けては通れない出来事と思い、記事にしました。
何時もなら毎月末・または月初めは「note開始〇ヶ月」の投稿をしていた所ですが、セナの命日だったためこちらを優先させていただく運びとなりました。
note開始4ヶ月&今後のnote活動予定の投稿は、日にちがズレますが明後日にする予定です。明日は、すみませんが休ませて下さい。
それでは、今日はこの辺で…。
また会いましょう。
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