【F1ドライバー紹介】今だからこそ、ローランド・ラッツェンバーガーを偲ぶ【追悼記事】
皆さんご機嫌よう。暇人33号です。
先週末、F1はイタリアのイモラサーキットにおいてエミリア・ロマーニャGPが開催されました。
通常のレースの場合、フリープラクティスを2回行い、その後予選・日曜に決勝の流れなのですが、今回は一日目にフリープラクティス1回後にスプリント予選、二日目はフリープラクティス1回後に予選、日曜に決勝の変則的なスケジュールで進行しました。
決勝の結果は、筆者が応援しているレッドブルが1・2フィニッシュ、アルファタウリの角田裕毅が7位で、ピエール・ガスリーは12位だったもののホンダPU4台中3台が表彰台・入賞と大満足の内容でした。この調子でフェラーリと良い闘いを展開して行って欲しいものです。
ーしかし、全力で喜べない自分がいるのもまた事実で…。
と言いますのも、4月下旬から5月にかける今時期、そしてイモラサーキットというと、「彼ら」を思い出さざるを得ないからなのです。
今回は、その「彼ら」の内の一人、F1ドライバーだった故・ローランド・ラッツェンバーガー氏の追悼記事となります…。
宜しければ、ご覧くださいませ。
経歴
レース活動以前
1960年7月4日、ローランド・ラッツェンバーガーはオーストリアのザルツブルクに生まれました。
5歳の頃に観戦したレースがきっかけで、レーシングドライバーになる事を決意します。その後、父の勧めで入った大学をやめて、レース活動を開始します。
1981年から2年間、ジム・ラッセルレーシングスクールでメカニックとして働いて活動資金を得て、1983年にフォーミュラ・フォードでレースデビューします。
レーシングドライバーとして
1986年、イギリスで行われたFF1600・フェスティバルで優勝しました。レーシングドライバーとしての腕前は確かなものだったようです。
そして、次の年の1987年にイギリスF3に進出します。
ツーリングカーレースでも、BMWのワークスチーム(※1)であるシュニッツァーのレギュラードライバーになる。
1989年、イギリスF3000参戦のかたわら、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権にトヨタのセミワークスのサードから参戦しました。
1990年は全日本F3000にも参戦。全日本ツーリングカー選手権にBMW M3で参戦。
1992・1993年にはステラから全日本F3000に再び参戦するなど、日本のレース界との関わりが深いドライバーでした。
ーそして、1994年。33歳にして念願のF1のシートを獲得。5戦のみの契約であり、その中でしっかりと結果を残さなければいけなく、後任としてシートを得る機会を伺っている数人のドライバーがおりました。
1994年、最期の年…
下位チームかつ、新興チームだったシムテック・フォードから参戦し、遂に念願のF1シートを5戦のみと言えど獲得したラッツェンバーガー。
開幕戦のブラジルGPでは予選落ち(当時のF1は全台が出走出来なかった)を喫したものの、日本は岡山県のTIサーキット英田で行われた第二戦パシフィックGPで予選を通過します。
入賞(当時の入賞は6位以上)こそしませんでしたが、11位完走と新興チームとしては快挙の結果を残します。
これから先、あくまで下位チームとしての範囲内であったとしても、順調に結果を残していくはずでしたが…。
1994年、4月30日
第三戦のサンマリノGPは、「呪われた週末」と言われるほど、事故が多発したGPでした。
ルーベンス・バリチェロは、予選一日目においてヴァリアンテ・バッサシケインにおいて時速225キロで縁石に乗り上げ、空中に飛び上がり、タイヤバリアの上端と金網に激突。鼻骨を骨折するケガを負いました。
そして…。予選二日目の4月30日…。
タイムアタック中だったラッツェンバーガー氏は、ヴィルヌーヴコーナー手前で突如フロントウイングが脱落。コントロールを失い、時速310キロでコンクリートウォールに激突しました。即死でした…。
その衝撃の強さは、強度が高いとされているカーボンモノコックをもってしても防ぎきれるものではなく、モノコックには穴が空き体が露出して見える程のものでした(極めてセンシティブなものなので、事故時の画像は載せません)。
原因は、アタックラップ前の周でコースアウトし、その時にフロントウイングにダメージを負ったためと言われております。
何故、事故が多発したのか?
根本の原因は、1994年からレギュレーションの変更により、ハイテク装備(アクティブサスペンションやトラクションコントロール等)が禁止された事にあったと思います。
通常、次年度のマシン開発は遅くても前年度に行い、じっくり作り込む場合は2年近くかけて開発していきます。
ハイテク装備がつく事を前提として開発されたマシンから、それを抜いてしまったら、様々な問題が発生してしまう事は明白でした。
実際に、J.Jレートやジャン・アレジ、カール・ヴェンドリンガーやペドロ・ラミー、ラッツェンバーガーの後任であるアンドレア・モンテルミーニなど、1994年は多くのドライバーがマシンの安全性が起因と思われる大きなケガを負っておりました。
この、多くのドライバーの死や負傷を鑑みて、FIAはレギュレーションに変更を加えました。付け焼き刃の突貫作業であり、変更直後こそ事故が多発しましたが、それから20年以上の長きに渡って死亡事故が発生しませんでした。
「彼ら」の死や負傷は、無駄にならなかったのです。
最後に
今回は、「呪われた週末」に散った、F1ドライバーのローランド・ラッツェンバーガー氏のお話でした。
ローランド・ラッツェンバーガー氏に関する情報が少なく、「薄い」投稿になってしまい申し訳ありませんでした。
記事を投稿しようと思ったきっかけは、冒頭でもお話しました通り、ちょうど先週にエミリア・ロマーニャGPが行われ、サーキットがイモラであったことと、ラッツェンバーガー氏が逝去した日が4月30日であった事です。
どうしても、1994年のサンマリノGPは、アイルトン・セナの死がクローズアップされがちです。確かに、セナは偉大なドライバーでした。
しかし一人のF1ファンとして、もう一人の散ったドライバーである、ローランド・ラッツェンバーガー氏の死を忘れてはならないと思ったのです。
…本日はこれで終わりとさせていただきます。
明日、若しくは明後日に、「彼ら」の内のもう一人、アイルトン・セナのお話をする予定でございます。
その際は宜しければ、筆者の拙文を見てやって下さいませ。
それでは。