考古学の発掘はどのように行われるのか?
友人が書いている本を紹介するというのは、どうしても身贔屓しやすいものだ。しかも私の記憶が確かならば、この著作が彼女の商業出版としては処女作であり、そして、直接、発掘の話を伺ったり、インド料理のワークショップを手伝って頂いた事もあり、そういった身贔屓を除外するという事はまず不可能なので、客観的に作品への距離を比較的取りにくい立場にあるという事を承知で、些か無謀だが本の感想を少しだけ書いてみようかと思う。
考古学という学問に限らない事ではあるが、自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学においてでさえ、決して書斎の安楽椅子に座ってのみ成り立つ訳ではない。実際にフィールドワークによって調査をし、そこから考察していくという過程を無視しては成り立つ事はない。
所で我々は遺跡の発掘がどのように行われるのか、実際に遺跡の発掘に携わる事が無い限り、どのような事を具体的に行っているのかを案外と知られていない。この本の著者は書斎に閉じ籠り、アームチェアに深々と座ってパイプでも燻らせているような学者ではない。現場のスタッフとして、暑い炎天下に於いても、寒い北風に晒される中でも、身体を張って遺跡発掘を仕事にしている立場にある。その事は本書を他にはないユニークな面白さを与えている。
遺跡発掘において、炎天下の日も、極寒の日も、発掘員は地質を見極め、天候とにらめっこしながら、パレットナイフやオタマの使用といった様々な創意工夫を凝らす。文字通り、彼らは職人技を駆使して、地層に眠っている、過去の人々の暮らしの息遣いを蘇らせようとする為に全力を尽くすのであり、そして、そのような大変な営みを支えているのは、当然、給料は出るのであろうが、それだけではなく、やっぱり1人1人の歴史や文化に対する深い畏敬の念だと思う。本当に頭が下がる。
そして直接、遺跡発掘に携わる事で培われた当時の人々の営みへの一貫した著者の暖かい眼差しは、同時にこの時代を生きる我々の行動への問いかけを含んで居る。確かに当時の人々も、今を生きる人々も、そんな事は実感さえも持たずに我々は生活しているのではあるが、我々が遺跡発掘し出土したミイラを、過去に実際に生きていた人の死体を些か不躾だと知りながらも展示するように、我々もまた未来に生きる人々からも、やはり発掘され調査されるという事を意味している。。
それでも発掘という行為が過去の人々の暮らしを知ろうとする営みである以上、私たちの暮らしは未来の人々に何を遺すのかという事も問われているのではないのか?
エピソードにもあるように、つい数百年前には富士山は噴火しており、地層はその痕跡をしっかりと残しているのだし、その火山灰を当時の人々が谷や窪地に埋めたという話や、埋葬された女性の髪が残っている櫛の話も生々しい。
私達が未来に遺すのは、毎日のご飯を作る竈や食器なのだろうか? 若くして天に召された少年王の亡骸に埋葬されていた花束なのだろうか?亡き人々への優しい思いやりなのだろうか?
それとも数万年もの歳月の間、絶対に拡散させてはならない核廃棄物を封印し続けなければならない最終処分場と謂われる場所なのだろうか? 或いは、人が人を踏みつけながら、やがては人類が暮らせない状態にしてしまい醜く自滅していく痕跡だけを遺して、消え去って行くのだろうか?
かわいいイラストで分かりやすく紹介しているが、見落としがちだが、結構、現場を知らないと出てこないであろう突っ込んだ話とかも書かれている。遺跡発掘という職業に興味がある人や、職業にしたいという人は、どういう事をやっているのかよくわかる。