見出し画像

【オーダーメイド物語】翡翠に咲く蓮、呪枷の鳥籠

★前作

◆翡翠に咲く蓮、呪枷の鳥籠


 ぬかむるほどにどろりと濁り溶けた闇の中。
 漆黒に染まった蓮のドレスをまとう彼女は、うずくまり、ひたひたと声にならない嘆きを滴り落とす。
 その身を捉える鎖は生きているかのように蠢き、苦悶と悔恨を呪詛にして檻を形作っていく。

『薬も、過ぎれば毒となろう』

 鼈甲細工のペンを弄びながら、なぜか、今はいないはずの師匠が、私の傍らで溜息を落とす。
誘発されるように思い出すのは、毒は清らかな水で流すものだという言葉。
 こちらの世界では、真の月から滴り落ちる雫に神性が宿ると聞いた。
 ゆらゆらとした眠りの揺籠の中、ひたひたと記憶を手繰り寄せる。
 月の雫はこの手にある、彼女の元へ、急がなければ、すべてが手遅れとなる前にできることが――

「――先生!」

 飛び込んできた弟子の声が、私を夢の淵から一気に引き戻す。
 いつのまにか、診察室で机に伏していたらしい。
 治癒院の門から診察室まで連ねる鬼灯に光が宿り、式神たちもさざめいていたというのに、今の今まで気づくことすらできなかった。

「先生、お疲れのところ申し訳ありません。式神を通してこのようなものが届いたものですから」

 申し訳なさそうに立つ彼の細い腕が差し出したのは、硝子細工の鳥籠だった。
 黒い蔓に覆われたその中では、不思議な模様を刻まれた蓮の花がゆらゆらと揺れている。
 夢の淵で視た彼女の姿がそこに重なり、理解する。
 癒すべき相手は、ここへは来られない。だから、あの夢が報せとなったのだと。ならば、私は為すべきことはひとつだ。

「これは、往診の依頼ということかしらね」

 前世と今世の記憶が混ざり込んだ先でたどり着く言葉に、私の覚悟が試されている気がした。
「せ、先生、それは……っ」
 鳥籠を抱えたままの弟子の顔色が変わる。
「危険なことはわかっているわ。でも、この方は遣いを出すことしかできないのだもの」
 普段ならば、ありとあらゆる術式を重ねて守護と浄化に特化したこの“治癒院”でやるべきことを、ここではない場所でなすのだ。
 それはとても危険なことで、未知の領域でもあって、容易く行えるものでもない、けれど。
「やらなくてはならない、やりたいって、私の内側から声がするのよ。自分の心には抗えないわ」
 さきほど視たモノが“師からもたらされた課題”に思えて、ならば私はおそらく、もう一段“上”に行くことを今求められている。
 そもそも、方法を知っていて、手段を講じられるのなら、やらないという選択肢はないのだ。

「……ではせめて、出立のお手伝いをさせてください」

 健気で愛らしい弟子は、ふわりと視線をさまよわせてから、私をまっすぐに見つめて告げる。
「ありがとう」
 優しい彼から受け取った鳥籠の中では、蓮が小さく震えていた。

 幼き日に遭遇した、星鯨の渡り。
 あふれ出した前世の記憶、医学知識、こちらとは似て非なる世界の理。
 けれど視た世界はひとつではなくて。
 祝福の砦に囲まれた“神の庭”からヒトの身を得て現世へ降りたのもまた、かつての私だと識っている

 準備を整えた私の手の中で、鳥籠が砕け散り、蓮は真珠色の涙をこぼす白い小鳥へ姿を変える。
 組まれた術式は、“転移”だ。
 眩暈がするほどに鮮烈な光とともに浮遊感に襲われ。

 一瞬後に回復した視界を埋め尽くしたのは、狂気と愛憎にまみれた無限回廊であり、彼岸花を模して暗赤色に灯る無数の吊灯籠だった。

 呼吸もままならない濃密な穢れと、神経を侵す色彩に圧倒される。
 ありとあらゆる物理法則を無視して、複雑に折り重なる階段に渡り廊下。
 寸断されては襖一枚でつながる、歪に変形した部屋の数々。
 手摺に、床に、壁に、天井に、足を踏み入れるたびに入れ替わる景色のことごとくが、毒を孕んだ花をその身に刻んでいた。
 少量ならば、用法を間違えなければ、薬にもなる植物たち。
 彼女が司っているのだろう存在が、彼女を追い詰める病巣となって蝕んでいる。
 これほどに痛みに覆い尽くされるほど、彼女はたったひとりで耐えてきたのだと、視える背景が突き刺さる。
 けれど、痛みで留まるようでは、治癒者とは言えない。

「あなたに会いに来ました。招いてくださったのでしょう?」

 脅かさないように、そうっと声をかければ、手の中で小鳥がふるりと震え、音もたてずに澱む城内の最下層へ向かって羽ばたき、滑り降りていく。
 私もまた、小鳥に続き、闇の中へ足を踏み出す。
 その足首には朱金の光が絡みつき、細く長く、空間を超え、治癒院に残してきた弟子の手まで繋がっている。

『誰かを助けたいと願うなら、まずはしっかり己に命綱をつけねばならんのだ』
『己の足場も力量も、見誤ったら相手に引き摺り込まれて共倒れだ』

 これは師の教えによってあつらえた命綱、私が在るべき場所へ戻るためのもの。
 自ら落ちるように相手の内へと潜り込んでいく最中にも、己を見失わないためのもの。

 そうして、身体も精神も圧し潰しにかかるような捩れ拗れた屋敷の最深部へと緩やかに落下しながら、時に薬瓶に詰めた月の雫に浸した指先で、あるいは治癒院から持ち込んだナナカマドの小枝で、紡ぐ “言の葉”とともに触れていく。

 触れることで、治癒は進む。

 欄干に、屏風に、灯篭に、襖に、身を捩って逃げ込もうとする花々へ、語り掛け、触れては蔓延する呪毒を文字に変えて引き剥がし、癒し、本来の姿へと整えるように、また言の葉を紡いで触れていく。

 繰り返し繰り返し、ひたすら丁寧に繰り返して。

「……ようやく、お会いできましたね」

 小鳥が導き、辿りついた先、最奥で私を待っていたのは、夢に見た鳥籠を模したあの檻だった。
人々の願いが、祈りが、欲が、呪へと変じて、成った澱みの檻の内で臥した神聖存在。
 名を穢れで秘され、自分自身では指先ひとつ動かすことすらままならず、ただ視線だけがかすかに移ろうだけの彼女を診て。
 じわりと胸を締め付けられながらも、朱金の命綱を頼りに心を保ち、丁寧に、慎重に、精緻に、相手へもっとも響くだろう音階に癒しを乗せて、相手の内側へと呼びかける。

 私の魂に刻まれていた"言霊信仰"は、師匠の教えを経て、チカラあるものと成った。
 魂に触れ、生命への賛歌をもって口ずさめば、言の葉に宿る神の息吹によって癒す術に昇華される。
 ここではないどこか、どこでもないどこに繋がる、物語の一端から紡ぎ出されているかのような感覚が、私を私ひとりでは辿り着くことのできない場所へと導いてくれる。
 たとえそれが神をも捕える領域だとしても、為すべきことを為すために、理すらも超えて、ただ相手のために。

「あなたがあなたを取り戻せるように」

 呪詛の檻が蒼の焔となって燃え上がり、不協和音の絶叫が奏でられる祝福の旋律に呑まれ、紅く昏く明滅していたモノたちが清浄な光を宿して辺りを照らし始める。
 捩れが正され、祓われていく澱みの中で、何かが生まれ代わり、宿り、力を得て、変じていって。
 そうしてようやく視えた彼女の“真名”を、さらなる祈りに乗せて紡ぎ、伝えた刹那の後に――

 ――ありがとう……

 呪枷の一片すらも掻き消し、視界すべてを埋め尽くすほどに咲き誇る蓮華たちの中心で、翡翠の音色をまとった蓮の女神が、私の手を取り、微笑んでいた。


***

◆オーダーメイド物語
【あなたのイメージで綴るこの世ならざる世界の物語】

▶︎ご依頼内容
Facebookでの物語企画から生まれた『琥珀の夢、破魔の言の葉』の続編としてご依頼いただきました。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?