見えないものはある/もちはこび短歌(23)
神の目はどの波長まで見えるのかX線を当てつつ思う
奥村知世『工場』(書肆侃侃房、2021年)
奥村知世さんの第一歌集『工場』は今年の忘れがたい一冊だ。工場での勤務と子育てを中心とした家庭生活が描かれていることは、一冊を通して一貫している。どの歌も明瞭に情景が伝わる文体で、そういう意味では一気に読ませる。一気に読ませるのだが、何か感じたことのないような読後感が残った。なんだろう。たとえば、労働について詠んでも、ジェンダーについて詠んでも、家庭のことを詠んでも、主張はあるのに読む者に圧を掛けてこない奥村さんの短歌。このフラットな感じが好きだ。
そう考えて、読み返すこと数回、歌の主体の視線が少し自らを離れたようなところから発せられているように感じることに気づいた。主体の心の奥底からというより、少し俯瞰して自らの状況を見て、それから詠んでいる感じ。この描き方から独特の叙情が生まれる。
主体は工場に勤務しながら、その工場の実験室で研究をする労働者のようだ。冒頭に紹介した一首も、実験室でのひとこま。自らの作業をどこか俯瞰したところから、「神の目」を気にしはじめたような読みもできる。事実、『工場』の330首余りの中に、「神」という字が出てくる歌は11首にも及ぶ。自分には見えないもの、感じ得ないものも、きっと「神」は知っているに違いないという、人間の奥底に備わった畏敬のようなものが、奥村さんの言葉にはいつも潜んでいるように思う。おそらくそういった気持ちを自らの身体がもちはこんでいることに自覚的な歌人なのだろう。こんな歌もある。
わが家にも無数の電子軌道あり子は昼寝する素知らぬ顔で
目に見えないものは確実に自分たちの周りに飛び交っている。そのことに「子」は気づいていないが、一般的には「子」と同様、それを意識して過ごす人は少ないだろう。そういう意味ではこの歌も「神の目」を意識した表現と言える。
職場や家庭といった日常をあえて俯瞰して見ることによって生まれた意外性。職場詠や家族詠はどちらかと言えば、当事者性に重きを置くことによって「真に迫る表現」を達成したものが多いが、奥村さんの歌の数々は「当事者から一歩離れた当事者」が主体を見ているようで、それは自分ではどうすることもできない「神の目」への畏敬であり、またほのかな憧れであるようにも感じる。自分にはすべてが見えるわけではない、見えないものはあるという視点は、自分を見つめる上で大切だと気づかされる。
文・写真●小野田光
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「もちはこび短歌」では、わたしの記憶の中であって、私が日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。
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