人がいない世界/もちはこび短歌(30)
文芸誌「文學界」の特集「幻想の短歌」に掲載された相田奈緒さんの連作から。幻想の短歌とは!?
一読して意味を追えると思うかもしれない。そう思うと一見、比喩のない「ただごと歌」に見えるかもしれないけれど、そう簡単にはいかない感じがある。「文學界」で初めて短歌に接した人も、おや、と思ったかもしれない。
3句目の句またがり(57577で音が切れずにつながっている部分があること)が、おや、を作る効果を挙げている。改悪例を挙げるのは好きではないけれど(法的にも、作者の許可なしに改変をしていると著作者人格権侵害に問われる可能性だってある)、たとえば「庭の花を明るいうちに摘みゆけば」とすれば、上の句に収まり、定型は守られる。
けれど、相田さんはそんなことはしない。「摘むことができれば」という9音を用いて、(短歌にしては)少し長いトンネルのようなものを一首の真ん中に掘ったのだ。読者のわたしは、おや、と思いながらトンネルをくぐる。「摘むことができれば」ということは、「できなければ」どうなるのだろう。できる/できないの分かれ道があることを感じながら、わたしはトンネルの出口に差し掛かる。
外は夜だ。意味を追うと、陽が暮れるまでに摘んだ花は、夜に花瓶にでも活けられて「室内の花」になっているということだろう。でも、なんか釈然としないので、何度もこの歌を読むことになり、暗記することになる。よって、もちはこび状態になってしまった。
この歌、トンネルを出ると、「夜」には人がいないような気配がしないだろうか。わたしにはするのだ。どうしてだろう。
上の句+「できれば」の句またがりまでは、作中主体(この短歌の主人公)が主語だ。「庭の花を明るいうちに摘む」ことを行なっているのは、〈私〉である。要するに主語に〈私〉を補い「私が明るいうちに庭の花を摘む」と読める。
でも、トンネルをくぐり終えると、〈私〉がいなくなっている感じがしないだろうか。「夜に室内の花」は、主語としての〈私〉が補いづらい文法になっていないだろうか。主体は「花」なのではないかという感じ。「室内の花」がポンと出現したような感じ、もっと言うと「庭の花」が自ら勝手に「室内の花」になっている感じがある。トンネルの前後で主体のねじれがある。これが、おや、の根源だったことに気づく。トンネルを抜けると、そこに人類はいなかった。
人間が摘んだだけの花が、夜、勝手に室内の花になる。そんなことは起こり得ない。人間が室内に運んでこそ、「室内の花」は完成する。
でも、「庭の花を明るいうちに摘むことができ」なければ、夜にその花はどうなっていたのだろう。庭の花のままだろう。いや、そうだろうか。暗いうちに「庭の花」以外になっていて、それを室内にいる人々は気づいていないだけかもしれない。
だとしたら、夜でも室内の明かりに照らされているこの花はなんなのか。人間は自分が摘んだから「室内の花」になったと思ってはしないか。誰が摘もうが、活けようが、そこにいる「花」は「花」の意志を持ってそこにいるのではないか。人間による他者の支配は、他者の意志なしに行われていると思ったら大間違いなのではないか。仮に人間が運んで活けたとしても、この花は自らの意志で「室内の花」でいるのだ。それは幻想なのか。
そんなことをわたしが思ったのも、すべては相田さんが変なトンネルを作ったからだ。そう、変なのだ。人間の理知では計り知れない世界こそ、言い換えれば人間不在の世界こそ、幻想なのだと、トンネルを何度も繰り返しくぐり抜けたわたしは、人間らしい思考に辿り着いた。幻想は人間にとって、わずかな、おや、であっても、実に変なものなのだ。だからこそ、幻想は私の日常や常識に、強く、粘り強く何かを働きかけてくるのだ。
文・写真●小野田光
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「もちはこび短歌」では、わたしが記憶の中で日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。
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