「#処女作」という言葉が嫌いです。
#ナボコフ が書き、初めて本として世に出た小説(#ロシア語)。
戦前ドイツの下宿屋における #亡命ロシア人 たちの群像から、ある男の妻の写真を見たひとりの男に起きる、強烈な #初恋 の #フラッシュバック 。
幼さからせっかく成就し結ばれた恋なのに、さしたる理由もなく手放してしまう愚かさが苦しく、二度と戻せないだけに主人公には永遠に刻印され、焼けぼっくいに火がついて以降は、現実より重要な現実となる。
絶対に取り戻すことができない祖国での記憶に結びついたが故に、慄きと予感に満ちた逢瀬が、陶酔的に描写され、やがて物語全体を支配していく甘美な時間、詳細かつ曖昧なディテールが物語全体をじわじわ浸食していく構造に、「#青白い炎」の原型を見出し、ナボコフ史的には遡って読むのがいちいち楽しい。
そして、フラッシュバックでまず連想するのが、作者が折々に言及している #プルースト の偏愛。
こちらはコンパクトにまとまっているが、後に語られる、ナボコフ自身の初恋の記憶と、年齢的に微妙に重なり合いながらも韜晦されている点に、やはり語り手が自身の記憶の靄の中から己の執着の原型、#アナベル を探り当てる、「#ロリータ」の萌芽を見る気がして、新種の #蝶 を発見したような気分に囚われる。
「ロリータ」で記憶の靄に消えた始まりの存在、アナベルを主人公から奪ったのは #腸チフス であり、こちらの主人公は、腸チフスを生き残ったことで、会う前から予感していた #マーシェンカ との宿命的な初恋に陥る。
後年、英訳版が出る際に付け加えられた、まえがきで説明されている英語タイトル、「#Mary」についての本人の説明が言い訳っぽくていかにもで、よく自作でイヤミを投げかける、#フロイト学派 への挑発で〆るところなど、初っ端からナボコフ節が炸裂w。
現行、古書では入手しやすいバージョンの表紙からも分かる通り、#1987 年にイギリス主導で #映画 になっており、日本での公開もあったが、ソフトは #ビデオ (VHS)のみで貴重ではあるものの、ナボコフ作品で映像化に成功したと言えるものはないだけに、別に見なくてもいい。
ロシア語で書かれた自作の翻訳や、その逆の翻訳作業をする場合も、ついでの改変をよくする作家としてもナボコフは有名だが、今作に関しては他者の翻訳に任せて手直しをしていないのも、一作目にこそ、書き手の全てが集約されている自覚があるからだろう。
最初に産みだしたものは、創作者にとって最も思い入れがあり、拙さも含めて愛おしい気持ちは俺にもよく分かる。
実際、一人の人間が書き続ける限り、後に続く作品は、出来の違いはあっても全てバリエーションに過ぎない。
書く限りは、みんな気が付いている事実。