苦苦(くく/にがにが)
疑うこともなく「選ばれる」ということが当たり前の人生だったら、今頃どんな性格になっていたんだろうと、しばしば、手に入れることのできなかった可能世界に想いを巡らせてしまいます。
可能世界とは、最近覚えた中で一番かっこいい言葉なので、少しでもインテリだと思われたくて一部文章を引用してしまいました。(『君が手にするはずだった黄金について』小川哲 新潮社)
生きていれば、何かしら「選ばれるチャンス」というものに出会います。
それは、ドラフトで一位指名だったとか、芥川賞にノミネートされたなど地位と名誉に直接結びつくような大層なものじゃなくてもです。
例えば、自分が誰かの好きな人になるというのは勿論「選ばれる」ことですし、試食コーナーで食べ物を差し出されるというのも私は「選ばれる」だと考えています。
どんなに些細なものだとしても、成功体験を積み重ねていきたいからです。
3、4年前ほど前、自分に降りかかってきている不幸は全て、自分を取り巻く世界が悪いと思っていました。
そういうのって表にも現れてきます。
私の場合は、めちゃくちゃ太りました。めちゃくちゃ太ってるし、人と目が合わせられないし、挙動不審みたいな。
きっと妙な空気感を醸し出していたのかもしれません。道端でティッシュを配っている人に、ティッシュを配ってもらえなくなりました。
とにかく貰ってほしいと、無差別に配っている印象があったのですが、その対象外になってしまったのでしょうか。
もうここまできたか、と思いました。
配るに値しない人間、もしくは、もはや私のことが見えている人なんていないんじゃないかという不安に襲われ、容姿に気を遣う余裕は更になくなるという負のスパイラルが起こってしまいました。
「選ばれる」とは無縁の日々が始まります。
しかし、どうしても生きていたかったので、生きていく権利をいただくためにアルバイトを始めました。
それは今も続けている建築現場でのアルバイトなのですが、そこは、出勤するだけで「今日も来てくれてありがとうね」と感謝され、仕事をすれば「助けてくれてありがとうね」と感謝され、作業に時間がかかっても「丁寧にしてくれてありがとうね」と感謝されるような環境でした。
全肯定環境
地面を掘削していた自己肯定感が、みるみる地上へと伸びていきました。
その流れで、肉体労働を活かしてダイエットを始め、一年で15キロ痩せました。化粧も楽しくなりましたし、ビューラーでまつ毛を上げれば二重になるようになりました。
(へ〜、すっぴん一重なんや〜)
ティッシュも当たり前のように配られるようになりました。
ブルーハーツも「未来は僕等の手の中」って歌っているくらいですし、ちょっとした考え方の違いで、現実・未来って変わっていくものなのだと学びました。
でも反対に、私の中で起こったちょっとした考え方の変化だけで、扱われ方って大きく変わってくるんだということも実感がしました。
「選ぶ人」がいるから「選ばれる人」と「選ばれない人」が誕生してしまう訳ですし、無意識のうちに自分がその立場になる可能性だってあるのは怖いです。
人って薄情かも。
ポジティブ直後にネガティブになりました。
でも、ある程度は自分の力で「選ばれる」を作ることは出来るのかもしれません。
しかしながら、結局のところ、自分が選ばれたいとピンポイントで思っているところで選ばれなければ、心は満たされることはないんだよなって思ってしまいます。
先ほど、自分が誰かの好きな人になるというのは「選ばれる」ことだと言いましたが、でもやっぱり欲しいのは自分が好きな人の好きな人が自分で〜みたいなことですよね。
でもそれがすごく難しいから、失恋ソングは一生トレンドなのかもしれません。
なんでなんでしょうね。なんで自分が本当に欲しいものって、手に入らないんでしょうね。
期待するからいけないんだろうなと、安直に、期待することを辞めたくなります。でも期待のない日々はすごく悲しいです。
上手くいきませんね、世界の掌で転がされちゃいます。
今年は特に、「選ばれる・選ばれない」に苦しめられた一年だったように思います。
個性だの将来性だの面白いだの面白くないだのたくさんのお言葉を頂き、嬉しくなる日もあれば、でもそれって、逆に芽を摘んでるんじゃない?出る杭を打っちゃってるんじゃない?なんて思う日もあったりと、教育というものの重要性と無責任さを感じたりしました。
そんなこと言ってないで、上手く利用していくことが「選ばれる」一つのコツなのだと思いますが、俺の根っこにあるロック魂(ロックコン)がNirvanaしちまうから、しゃーないよな。
RadioheadだってGreen Dayって言うてたし!
というわけで来年も夜露死苦!
馬場光(2023)