酔いどれフィロソフィア
時間は、物理的にせよ心理的にせよ、過去から未来に向かって流れているようにみえる。しかし、大森荘蔵の哲学を引くまでもなく、神道にいう”中今“や禅の教えにいう”而今“のように、現在只今・この瞬間のみが唯一のリアリティとしてあるようにもみえる。
だからこそ、例えば鴨長明の『方丈記』のあまりに有名な冒頭部分は、著されてから800年を経た今もなお、読む者に時間についての何かを問いかけ続ける。
ところで、音楽にせよ舞踊にせよ、(ドビュッシーが遺した言葉を借りれば)「言葉が途絶えたときからはじまる」アートに取り組む者にとって、しかもそれが記録媒体に依らない元来の在り方であるときに、そのアートの歴史と哲学を真摯に学び、常に注意を払うことは非常に大切な姿勢であろう。
今日、AIの出現により、言語化された情報の集積と処理は、人間が到底追い付けないような速度で行われてしまうようになった。それはまるで、”考える“という人間の根幹ともいうべき極めて人間的な営みが、時に非効率で非生産的ですらあるという難点をいとも狡猾に利用するかのように、人間が自らの頭で考えなくなるように仕向けていく側面があると思う。
だからこそ、ここで言う歴史や哲学というのはおおよそ、これまで良しとされたやり方のままでやっていたのでは、その意義や重要性を失いかねないのではないかと僕は考えている。
”正しい回答“をできる限り多くAIに学習させれば、答え合わせだけを必要とする利用者にとってはますます使い勝手がよくなるわけで、やがて人間の思考などというものは邪魔なものにすらなり得る。また、言語化された情報はその帰属を失い続け、新しい“公”として急速に伝播していく。そうなると、歴史や哲学の在り方はいよいよ、より抽象度の高い次元や暗黙知の領域を本腰を入れて扱わなければならなくなるし、それがアートを通じて取り扱われる場合には特に、世界と身体の接地点で起こる非言語的な真の思考を未知の空間での創造的な振る舞いに反映することが求められているのだと思う。
なんて話を呑みの席でしたら、みな、どんどん席を立っていくかもしれないし、失笑を買うかもしれないが、僕は嫌いではない。
水が低いところから高いところへは流れ得ぬように、時間は現在から過去へ流れることはない。つまり、人間の業(技)=アートにおいても、現在に影響を与え得るのは過去であって、その逆はない。だから、もう一度言うが、歴史と哲学を学ぶことは重要なのである。
ただし、前段の意味からも、ここで言う歴史を”実験や実践の軌跡“、哲学を”リビドーや情熱の軌跡“として捉え直すべき時期がいよいよやってきたのだと僕は考えている。
少し抽象度を落とそう。
アートを杯に例えよう。皆、立派な杯を拵えようとする。趣向を凝らし、これまで学んだ先人たちの技と自らの美意識を盛り込み、とびっきりのものを拵えようとする。立派な杯には高値が付き、やがて美術館に収蔵されるかもしれない。「うーん、なるほど…」と唸る鑑賞者や「〇〇先生のこの杯の素晴らしさは…」なんてうんちくを垂れる批評家も現れるかもしれない。
しかし杯の本質は酒が入ることであり、酒を入れた時の呑みやすさや味の引き立て具合である。趣向を凝らされた外見より、むしろ空間が肝心なのである。いくら美しくたって、酒が漏れるようでは使い物にならないし、口触りが悪く呑みにくい杯は好くない。
絡み酒は好きではないが敢えて言わせてもらおう。
もしかすると私たちは、杯の外見ばかり気にしすぎて、それを本質と見誤ってきたのかもしれない。
これは音楽ならば”作曲家絶対主義“や”楽譜至上主義“のようなものが当てはまるかもしれない。
今日クラシック音楽とカテゴライズされる音楽の多くは、当然ながらその誕生当時はクラシック音楽ではなかった。例えば、”バロック音楽“などという呼称は後世に作られたものに過ぎず、J. S. バッハは自分が作っている音楽を”バロック“などとは微塵も思っていなかったはずである。
楽譜が持つ役割も、作曲家が楽譜に書き記すべき内容も、時代や様式によって大きく異なった。共通の言語を理解する場において、媒体に記される情報が簡略になるのはしばしば起こることである。「これはこうやって演奏するものだ」という習慣が共有されていれば、いちいち書く必要はない。
逆に言えば、楽譜に書かれる内容が厳密になるにしたがって、作曲家の役割が増すというだけでなく、その楽譜に書かれた音楽は作曲家個人の表現のためのものとなっていき、文化性は薄まっていく。要するに書かないと伝わらないことが増える。
クラシック音楽が(作曲家がいて、その個性や天才性の反映はあるにせよ)ある文化の賜物であり、民俗(民衆)音楽の一部であった、あるいはそうした人々の文化の中に息づいた音楽と密接に関わり合っていたものであった頃には、楽譜に記され今日まで伝わって我々に理解される音楽とは比較にならないほど、豊かで生き生きとした音を鳴らすことを想定されていたのだろうと思うのだ。(これが僕自身が取り組んでいる”民俗音楽としてのバロック“なんかの動機です。)
さらに言えば、アートをはじめ文化的な事象においては、しばしばその”周辺“の分厚さこそが、重要な役割を演じることになる。なぜなら、刺激的で創造的な出来事は、隣接する周辺と交わる場や他者と接する辺縁で起こることが多いから。文化の生きのよさというのはいわば、評価が定まっていない、流動的な現象にこそ多く見出される。”中心“はどうしても博物的だったり、複製可能だったりして、消費用の発展が求められてしまう。つまるところ、歴史に残るのは異端だけと言えるのも、そのためであろう。(しかし真の異端は本道を行く異端である。だからこそ前衛なのであって、奇をてらうだけでは、“奇をてらうだけ”という意味で皆一緒で、異端にはなれない。)
音楽を聴く、もっと言えば生の表現を体験する文化、さらに言えばそれを通じて心を揺さぶられるという生々しい体験を大切にする人間性が衰退しないように音楽を作って演奏している僕にとって、こうした時間(歴史)の捉え方や知的態度(philosophyつまり智を愛するという元来の意味での哲学の実践)はこのところより一層重要性を増している。それはつまり、ここにこそアートの身体性や人間性は残されているのではないかと信じるからである。
杯なんてどうでもよいとは言わない。容れ物なしには酒も呑めぬ。しかし僕は、その中に注がれる酒にこそ、より一層人間文化の奥行を見るのである。
ここまで言葉を連ねてみても消化不良の感は否めない。伝わるのか伝わらないのかという以前に、ここに書いたことが本当に僕自身の感覚や考えと合致しているのか、甚だ疑わしい。あらゆる現象が言葉になった時点でそのリアリティを喪失するから、それはどの道しかたのないことなのだけども。
それにしても言葉は文字の発明以来、視覚寄りになってしまった。
しかし僕は、酒を、香りを、味を”きく“感受性とそこから生まれる表現のようなものにこそ、これからのアート可能性というか本領を見出したいのである。
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