気持ち悪いところを愛して
気持ち悪いところを愛してくれよ!
っていう気持ち悪いことを最近考えている。
自分で自分のことを愛すだとか、大切にするだとか、よく聞く角の取れたまるっこい言葉たち。
耳触りはいいけど、何かいつも腑に落ちなかったりする。
なのでいつも頭の隅っこで愛すとか愛されるとか自己愛とかアイス何食べようとか考えていた。
そんで昨日ふと思ったのが、愛することにだって適材適所があるんじゃないかしら、と。
たとえば、私は自分の素敵なところはうまく愛す事ができる。人見知りがなくて愛想がいいとか、誰にでも合わせる事ができるとか、愉快なダンスを踊ることができるとか、人の誕生日をいつも忘れないとか、いろんな考え方の人を受け入れてあげられる、とか、とかとか。
当たり前な事だけど、いい事、良いところを愛すことは簡単だと思う。てかもうこれは愛すとかじゃないと思うんだ。だって愛って意志だと思っているから。
素敵なところは好きになろうって思って好きになるもんじゃなく、気づいたらもう好きになっちゃってるもんだし。多分ね。
反対に、自分の嫌なところ、汚いところ、気持ち悪いところはそう簡単に愛せない。それがたとえ自分のアイデンティティのひとつになっていたとしても、なんだか上手に愛してあげられないのだ。
だからといって素敵なところだけ愛してあげるのは可哀想なのだ。気持ち悪いところだって愛して欲しがっているのだ。ていうか寧ろ気持ち悪いところの方が人に愛されたがっている、愛に飢えている。
だから、私の気持ち悪いところを愛するのは君に任せた。私は自分の気持ち悪いところをうまく愛してあげられないけど、君の気持ち悪いところはうまく愛してあげられるし。だから、その代わりと言ってはなんだけど、私の気持ち悪いところをしっかりと真面目に愛しておくれよ。これは適材適所なんだから。
向いてる、向いてないとかもあるんだよ愛にもきっとさ。愛のことなんて知らないけどね。愛のことなんて分かんないけど。でも多分きっとそう。